2017年08月01日

真珠の耳飾りの少女とムンクの叫び

この作品はいいタイトルが思い浮かばなかったもので、二つの作品名をそのまま使わせていただきました。私は美術品が好きでして、子供のころから頭の中で絵画の中の人物たちや銅像などに会話させたりしていました。そう言った脳内での遊びは今も止められず、「風神雷神図」の雷神とピカソ作の「泣く女」を会話させてみたりするのです。軽妙な雷神の口調と、熱を感じさせない冷めた口調の泣く女。頭の中では馬鹿話をさせ一人でニヤ付いたりしてますが、今回は一つ真面目に作品を作ってみました。
話に使わせていただいた美術品は、ヨハネス・フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」とエドヴァルド・ムンクの「叫び」です。この二つの作品は描かれた国も年代も異なっているわけですが、そういった作品同士を向かい合わせるのもなかなか面白いもので。
今回の作品も是非ご賞味いただきたく思います。
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・真珠の耳飾りの少女とムンクの叫び


誰かの不安を映し出したかのような赤い空の下、青いターバンを巻いた少女は一人歩いていた。血のように赤い空よりも、少女は自分の耳にかけた真珠の耳飾りが落ちてしまわないかが気になっていた。ただ気になると言っても、それはほんの些細な思い。冬を待つ大樹から一枚の枯れ葉が落ち、自らの根に乗る土の上で命の終わりの音を鳴らす。そんな些細な事だ。


 薄暗い街から届く赤い風に吹かれ歩いて行くと、長い橋が見えて来た。橋の入り口から少し先に入った所に立つ、影のような色をした男性二人の横を通りすぎる。明らかに身なりの違う少女が横を通っても、彼らの目にその姿は映ってないようだった。少女は蒼白な顔に手を当て、一人叫ぶように佇んでいる男の前で立ち止まる。恐怖、不安、困惑、彼の表情にはあらゆる負の感情が渦巻いているように見えた。普通の人間ならなるべく関わり合いを避けたくなる風貌の男に、青いターバンを巻いた少女は迷うことなく声をかけた。
「こんにちは」
男は顔に手を当てたまま、物を見るかのように少女に目を向ける。口を開く様子は全く感じられない。
「なぜあなたは叫んでいるの?」
声にならない声を発している男。彼の顔では、突然に声をかけられたことにより困惑の色が濃く深くなっていた。見るからに特異なこの男は人から声をかけられたこともなく、奇異の目を向けられるか素通りされることが当然の事だったのだろう。
 答えに窮している男に、少女は自分の耳にかけられた真珠の耳飾りを街から吹く不気味な風に揺らしながら、もう一度聞く。
「ねぇ、どうしてあなたは叫んでいるの?」
このまま黙っていても、この場から去る気配もない少女から男は目を離す。そして彼女と同様に風に吹かれ、男は疲れたように言葉を出した。
「もう、答えは出ているんだろう」
「答え?」
男は再度青いターバンの少女に目を戻す。彼の目に力強さはないのだが、少女は重い圧力に気圧され半歩足を引く。
「なんだか君は、僕が何をしているのか知っているように見える」
男の言葉に少女は薄く微笑んだ。微笑んだという確証はないだけの小さな表情の変化だったが、男には確かにそう見えた。綺麗な容姿をしているが、気の強さを感じさせる微笑みらしきものを浮かべ、彼女はうなずく。
「ええ、知っているわ。私があなたについて理解していることが正しいか正しくないかはわからないけれど、私は知っている」
男はようやく自分の顔に当てられていた両手をおろした。恐怖や不安、困惑の感情は男の顔にそのまま残っていて、今はそこに疑問の感情まで重ね塗られているように少女には見えた。
「理解しているならそれで十分だろう。僕にかまわないでくれないか」
「あなたの口から答えを聞きたいの」
「残念なことだけど、僕は人に何かを伝えることはできない。そういう役目は僕にはない」
今度は確かに少女は笑った。
「どんな人でも伝えることは出来るのよ。そのために私達はいるんだから」
「じゃあ君も何かを伝えるために?」
「もちろんよ」
「何を?」
首を横に振る少女の耳で真珠の耳飾りが大きく揺れた。
「先に問いかけたのは私よ」
男は視線を下げ自分の足先を見る。その足先には橋の上に落ちた木の葉に噛り付く一匹の毛虫。その頼りない命の先が気になり、男にはさらに不安が募る。
「面倒な人だな」
「あら、そう?」
「僕が叫んでいる理由?」
「ええ」
「僕は別に叫んでいるわけではないんだよ。ただ僕を見た人が、僕が叫んでいると意識しただけ」
男の言葉に少女は黙ってうなずく。
「やっぱり君は知っているんだね。そうだよ、僕は自然をつんざく響きを聞いて、恐れおののいているんだ。だから叫んではいない。答えを知っている人に種明かしをしてもつまらないけれど、これで満足だよね。僕はこれからもずっとそれを聞いていなければならない。だからこれで話は終わり」
男から答えを聞いても、少女はこの場から去ろうとはしなかった。むしろこの男に興味を引かれているような表情を見せる。
「もういいよね」
街の方角から吹く生ぬるい血のような風に、男の声はかき消されそうになる。背伸びをした少女が、その言葉に手を伸ばしたように男には見えた。

「一休みしませんか」
少女は意味の掴み取れない言葉を発した。男は首をかしげて見せる。
「一休み?」
「こんなに淀んだ風の中で暗い思いを抱えていては、具合が悪くなってしまうでしょう。紅茶でも飲みながら体を休めませんか?」
思いもよらぬ提案だったに違いない。男は立ち尽していたが、彼の心を映すように彼の影は大きく揺れていた。見知らぬ人間から突然お茶に誘われるなど、悪い夢でも見ているようだった。自然の嘆き声と同じで、知りもしない人間からの誘いなど恐怖でしかない。
「迷惑でしたか?」
少女は初めて弱気な声を出した。男の顔色を伺うような表情。誘いを断り人を傷つけることを恐れ、男は蒼白な顔のまま声を出す。
「僕はここに立ち続け、自然を脅かす物事に対して恐れおののいていなければならない。これはとても大事なことなんだ。でも君のせっかくの誘いを断るのは、上手に焼けていないお菓子を自信満々の顔で差し出されるくらい辛い。生焼けのお菓子を食べるのは辛いし、それを理由に人の好意を陰で捨てるのはもっと辛い。だから少しの間だけなら、ほんの少しだけここを離れてみてもいいかもしれない」
一言で済む返答に、長々と理由を付けた男に少女は笑った。美しいのだが悲し気な笑み。
「変わった人ね。でも良かったわ。さぁ、行きましょう」
先に歩き始めた少女。彼女の頭部を包み込んでいる青いターバンが目を引き、男はオスロ・フィヨルドを望む景観から初めて離れることとなる。


 少女は一度も振り返らずに歩き続けた。まるで自分の後を男がついてくることを知っているかのような軽快な歩き。二人が距離を置き歩いているうちに、不気味な風は男に吹きつけることを止めていた。
 
歩き始めて数分かそれとも数十分経ったのか男にはよくわからなかったが、いつの間にか男の眼前には作り物のように美しい青空と草原が広がり、その中腹に一軒の家が建っていた。小屋にも見える家の前に立ち、少女は古ぼけ黒ずんだ鍵を取り出した。鍵を持っているということはここが彼女の家なのだろうが、常に不安を抱えている男は確認のために聞く。
「ここが、君の家なの?」
少女はまた微笑んだ。手でこすればすぐに消えてなくなってしまいそうな笑み。
「それって聞く必要ありますか?」
「だってこれは僕にとって、とても大事なことだと思うんだ。ここまで付いて来て今さらこんなこと言っても遅いかもしれないけど、君は多少僕の事を知ってるようだけど、僕は君の事を道端に転がる石が固いことと同じくらいにしか理解していないんだ。だから君がどんな人だか僕にはわからない。もしかしたら君はカフェで暖かいコーヒーを飲んでる老人を、後ろから叩きつけて鍵を奪うような人かもしれない。そして今その鍵を、さも自分の物のように出したところかもしれない」
少女の笑みに変化はなかった。
「たくさん話せるのね。例え私がどんな人間だったとしても、あなたが感じている脅威に比べたら私の問題なんてほんの小さなことでしょう」
少女は家の扉を開け、躊躇することなく中に入っていった。男はため息をつきその後を追う。自分の意思ではなく、そうするしか術がなかったのだ。
 
青いターバンを巻いた少女に案内された家の中は外観から察するよりも大分広く、男が今まで見たこともないようなものが木造の家の中にいくつも飾られていた。異世界に来てしまったかのように男は家の中を見回した。そうすると少女が開けっ放しにされた扉を閉めようとしたため、男は怯えたような声を出す。
「ちょっと待って。扉は開けておいて」
少女の頭の中に疑問が浮かび、その疑問を色付けすることなくそのまま口から出す。
「どうして?」
「おかしなことを言ってると思わないでほしいんだけど、なんかこの家は特別な感じがするんだ。別の世界に足を踏み入れた様な感じ。だから扉を締めてしまうと元の世界に戻れなくなりそうな気がして怖いんだ」
不思議そうな目を向ける少女に、男はまた口を開く。
「居心地が悪いってわけじゃないんだ。ただ君と同じでこの家も凄く特別な感じがして」
自分を傷つけぬよう気を遣う男。わざわざ男が嫌がることをする必要はないと、扉を開けたまま少女はキッチンに移る。男は畏怖しながらその姿を見つめていた。
「ハーブティーでいいわよね。いろいろ種類があるけど何がいいかしら?ローズヒップ、ローズマリー、タイム、それにカモミールにラベンダーもあるけれど、どういった紅茶がお好み?」
清掃の手が行き届いているであろう整頓されたキッチンに立つ少女は、どのハーブティーを飲むかの選択を男に迫り、その声には小さなトゲがあるように男は感じた。
「聞くまでもないよ。僕がハーブティーの種類なんか知るわけがない。その効能ならなおのこと」
「だと思った」
少女は笑った。大人びて見える知性的で強気な少女が見せた、初めての幼い笑い。人物画に描かれる無感情な女性のように見えていた少女に、子供のようないたずらっ気が見え、男の中で徐々に恐れは薄まりを見せる。
「やっぱり知らないと思ってたのに聞いたんだね。意地の悪い人だ」
「そんな言い方ないじゃない。私はせっかく美味しい紅茶を御馳走しようと思っているのに」
「ごめん。紅茶の種類は君に任せるよ」
「わかったわ。少し待ってて」
「うん、ありがとう」
男はこの家と同じ木で作られた椅子に座り、もう一度家の中を見回した。見たことのない観葉植物に見たことのない細長い絵画、それに依然見たよりも精巧になった地球儀の隣には乾いた土色の地球儀。テーブルの端にも見たこともない長方形の物体が一つ。分厚い敷物なのだろうか。この家にある物置かれている物の多くが見たこともないものだった。本当に別の世界に入り込んでしまったのかもしれないと男は思う。
 まるで答えの見えない考えを巡らせていると、少女が男の見たことが無い不思議な物を手に戻って来た。また未知なるものの登場だ。
「これは?」
「ハーブティーよ」
「こんなの見たことが無い」
「これはドナウキャンドルセットといって、キャンドルを使ってポットを温めているの。素敵な形でしょう」
「うん、綺麗だと思う。それに、優しいリンゴのような香り」
男の何気なく出した言葉を聞き、少女の顔には驚きが広がった。突然の少女の表情に男は身を固くする。
「どうしたの?」
「あなたがこのハーブティーの特徴を香りだけで当てたから驚いてしまって」
「当たってたの?」
「不思議ね、あなたには香りを嗅ぎ分ける才能でもあるのかしら」
少女はポットからマグカップに紅茶を注ぎ入れ、男は紅茶から登る湯気と共にカモミールの香りをもう一度吸い込んだ。
「上手くは言えないけれど、本当に優しい香り。癒されるようだ」
少女は顔をほころばせ一段高い声を出す。
「ねぇ飲んでみて」
少女の顔に喜びが見えたことが嬉しく、男は急いでマグカップを持ち上げた。
「熱いから気を付けて。ゆっくり飲んでね」
「大丈夫だよ」
男は口元にカップを当て、少女の言う通りマグカップの中に穏やかな流れを作り、優しさを感じさせる紅茶を口内に運んだ。ハーブティーは本当に熱かったが、カモミールの風味が広がり男は少し幸せに触れた気がした。そんな男に少女は聞く。
「どう?」
男はここでも迷う。この紅茶の香りを嗅ぎ取った時のように、少女をもう一度驚かせてやりたかった。美味しい紅茶を淹れてくれた少女に対する、せめてもの礼だ。だが先ほど以上の言葉は浮かばず、男は思った言葉をそのまま口にする。
「やっぱり優しいリンゴの風味がする。薄いけれど柔らかな毛布で心を包んでくれるような、落ち着く味」
少女は笑顔でうなずいた。自分の感想は間違ってはいなかったようで、男は安心する。カモミールの効能と同じく、全てを知っているような少女の不思議な笑顔も男に安心をもたらせた。
「あなたの頭の中にはハーブに関する専門書でも入っているのかしら。カモミールという学名はギリシャ語で「大地のリンゴ」を意味するもので、カモミールという植物からは本当にリンゴの香りがするんですって。そして心を包まれるようだ、という表現もカモミールの特徴を言い当てているわ。カモミールは不安や不眠に有効で、気分をリラックスさせる効能もあるの。そして別名では「植物のお医者さん」とも呼ばれていて、病気にかかった植物の近くにカモミールを植えると、その植物は元気になるとも言われているのよ」
「カモミールって凄く優秀な植物なんだね。凄いよ。そして君も」
「私も?」
「僕は今飲ませてもらってる紅茶の印象を思うがままに伝えただけ。でも君は僕のつたない言葉を本来のカモミールの効能と照らし合わせ、詳細な説明とともに僕に正解という印を与えてくれた」
少女は何も言わずに、もう一つのマグカップに注いだカモミールティーを飲んだ。
「素敵な風味。本当に疲れた心が包まれるよう」
「もしかしてこのカモミールって紅茶を選んだのは、僕のためだったの?」
男の言葉に、少女は躊躇することなく頷く。
「ええ、そうよ」
「でもどうして僕なんかに。それに君は僕の事をよく知っているようだったけど」
「質問を二つ重ねることはあまり良くないわね。問いがぼやけて伝わり、あなたの望む答えが得られなくなってしまう」
「ごめん。僕あまり人と話さないから」
少女は白く細長い指を立てる。
「それともうひとつ。僕なんかに、なんて自分を下卑するような言い方はしない事。それは絶対に間違いだから。あなたはあなたしかいないのよ。誰でも必ず大事な存在なの。そして私はそんなあなたを橋の上で見て、お話をして、美味しい紅茶を淹れてあげたいと思ったの。あなたなんかではない。あなたにね。橋の上で蒼白い顔をしているあなたには心身を落ち着かせるための休息が必要だと思ったから」
少女の淹れてくれた優しい香りが男の鼻に静かに届く。
「そうか。ごめん」
「謝ることなんかないわ。わかってくれればいいの。そしてもう一つの質問ね。確かに私はあなたの事を知っていたわ。ううん、違うわね。正しくはあなたの事を聞かされたのよ」
男はカモミールの優しい香りの中、目を広げる。
「僕の事、誰から聞いたの?」
少女は眉を上げ、何か考えているかのような顔を見せる。カモミールの香りに人の香りが混ざった気がした。
「黒い髪に黒い目、黒い服に、暗い背景を背負った女性に聞かされたのよ。橋の上で身動きできないほど恐れているあなたがいると。美しい顔に静かな笑みを浮かべた女性よ」
「僕はそんな人知らないな」
「私も知らない人」
「それでその黒の象徴のような女性は、君に伝えたんだね。橋の上に立つ僕を助けろと」
少女は首を振る。
「彼女はそこまで言わなかった。ただ橋の上にあなたがいることを伝え、そしてこの家の鍵を渡した。さっきも言ったでしょう、私はあなたと話して初めてここに連れて来ようと思ったのよ」
「じゃあやっぱりここは君の家ではなく、その女の人の家なんだ」
「たぶんね。わからないけど多分そうだわ」
マグカップを置き少女は男を見る。
「また私が怖くなった?」
恐れの雲を背負いきれないほど背負った男は、少女の予想に反する言葉を発する。
「不思議なことだけど、今は君に怖さを感じないな。知らない人と他人の家で紅茶を飲んでいるなんて、普段の僕からしたら考えられない状況だけど、うん、ここから逃げ出そうという気は起きていないよ」
「それなら良かったわ」
少女は空になった男のマグカップに紅茶を注ぐ。こういった物の扱いが多い暮らしをしてきたのか、それはとても手慣れた動作に思えた。心を開き始めていた男は少女に聞く。
「君はいったい誰なの?」
男が少女の内側に踏み込む問いを投げかけても、少女は全く動じなかった。自分の内面に入り込んできた何者かを受け入れるような笑み。
「あなたがあなたであるように、私は私。黒に似た世界の中で佇んでいたのが私。その私をさっき話した女性がこの世界に連れ出したの。ここであなたの存在を教えられ、あなたに会いに行き、半分強引にあの場所から連れ出し、あなたにカモミールティーを淹れてあげた。この世界ではまだそれだけの存在。でも私という形跡がどんなに小さくても私は私よ」
男は乾いた手の平を自分の胸に置く。
「わからないな。きっと君は君の知りうることを最適な言葉で示してくれたんだろうけれど、僕には君の言葉を理解しうるだけの能力が無いようだ」
「そんなことないわ。あなたは自然の嘆きに恐れを抱けるほど賢明な人だもの」
「そうなのかな」
少女は椅子から立ち上がり、再びキッチンに戻ると食器棚の隣に置かれた小さなケースから袋を取り出した。乾いた音を立て、袋の中身が丸みのある皿に落ちていく。カタカタカタ。その音に男はどこか遠くにいる家族の匂いを感じ目を閉じた。
 だが寂しい暗闇にも今日は薄日が差す。少女の小さな笑いが伝わり、男はすぐに目を開ける。
「目なんか閉じちゃって、どうしたの?」
「いや、なんでもないよ。ところでそれは何?」
男は少女が持つ皿を見た。
「何って、クッキーよ」
「クッキー」
「そうよ、クッキー。知ってるでしょ。クッキーと紅茶は良く合うの。食べてみて」
テーブルに置かれたクッキーを一つ指で摘まみ、男は口に運ぶ。
「美味しいよ。でも紅茶と合うのなら、どうして最初に持ってきてくれなかったんだい」
少女は強い目を大きく開け男を真っすぐに見る。そしてたっぷりと間を溜めて一言発した。
「忘れてたのよ」
こういった場合、どのような返答をすれば良いのか男にはわからず、ただ苦笑いを浮かべてみせた。
「ドジでごめんなさいね」
謝ってはいるが悪びれる様子のない少女に男は笑顔を見せる。
「謝ることは無いよ。こんなに美味しい紅茶とクッキーの食べさせてもらえて凄く嬉しいんだ。あの橋の上で叫ぶように佇んでいた僕に、これだけの素敵な時間を与えてくれるなんて本当に嬉しいよ」
「良かった」
少女もクッキーをゆっくりと食べ、紅茶を飲む。先ほどの男とは違い、本当に至福の時かのように穏やかに目を閉じる。その何気ない仕草は男に美を感じさせた。
「美味しいわね。本当に美味しい。それに、一つ大きくなったわ」
「大きくなった?」
「ええ、あなたに紅茶を淹れただけではなく、クッキーも食べてもらえた。そして一緒にカモミールティーとクッキーの織りなす美味しさを分かち合うことが出来た。これでまた、この世界での私の形跡が大きくなったわ」
「そんなことで喜ぶなんて、君は本当におかしな人だなぁ」
男の言葉に少女は力強く笑う。
「どんな小さなことでもね、人は大きくなれるのよ。出し忘れていたクッキーを遅れて出すだけでも、誰かがこぼした紅茶の雫を拭いてあげるだけでもいい。例えそれが他の人から見たら無価値なことであっても、あなたにとってそれに価値があればあなたは変われる。そんなことは無価値だって言われたからって気にしちゃだめ。こっちの世界の人達は周りの目を気にしすぎよ。人や世の中に害をなすことでなければ、他人の考えは本棚の隙間にでも詰めておいて、自分の視点を持つことも大事。思いっきり自分のしたいことをするの。『これが私なんだから文句ある?』ってね。だからあなたも、自然の声に耳を傾けるのもいいけれど、あなたのしたいことをすればいいと思うわ」
「したいことかぁ」
「何だっていいのよ。私のように紅茶を淹れるのもいいし、草原で一人のんびりするのもいい」
「そうか、そんなことでもいいんだ」
「そうよ。青い風が吹く草原に寝転んで手足を思い切り伸ばすの。あ、それに古い文庫本を一冊持っていけばもっといいわね。好きなだけ青空を眺め、草の暖かさに心をゆだねて、時に文庫本をめくるのよ。緑色の草が風にそよぐ音と、文庫本をめくる音。それって凄く素敵じゃない」
恐れを抱くだけだった男は、自分のこれからに目を向け高揚した声を出す。
「うん、それは凄くいいことだと思う。僕も今度それやってみようかな」
「でしょ。絶対やるべきよ」
少女は笑顔のまま観葉植物の上の壁にかけられた時計に目を向けた。その動きに何かを察し、男は皿の中に残されたクッキーを指さす。
「これとても美味しかったよ。だから残りは食べないでとっておいてくれないかな」
男の意図していることが伝わらず、少女は首を横に傾ける。
「これを食べないで残しておいたら、また君に会える気がしてさ。僕もどんな形跡を残せたか君に報告したいんだ」
少女の顔に優しさが広がった。
「そうね、是非聞かせてもらいたいわ」
男は自らの意思で立ち上がり、少女を見る。
「また会えるよね?」
強い笑顔で少女は答えた。
「あなたが会いたいと願ってくれるのなら、また必ず会えるわ」

 男は軽快な足取りで歩き出し、謎の女性の家から出た。
「今日はいろいろとありがとう」

男の声は一面の緑が広がる草原に消えた。

 
                        芝本丈


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posted by シバモト at 20:00| Comment(0) | 読み物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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