2017年10月01日

春への扉



また読み物を一つ置いておきます。
また美術品を使わせてもらった読み物です。
ゴッホ作の『タンギー爺さん』とヨハネス・フェルメール作の『ヴァージナルの前に座る若い女』を登場させました。
6.pngヴァージナルの前に座る若い女.jpg



お時間があればお楽しみいただけると嬉しい次第です。

 注 けっこう長いのでお読みになる人は覚悟してください。






     ・春への扉



私は今日も扉を叩く。
開くことのない扉などない。どんなに頑強な扉でも誠意を持って叩けばいつか開くときがくる。そう信じて4日目。今日も扉が開かないであろう予感に、私は逃げ出したくなる気持ちを抑え、扉を叩き続ける。
 鉄を元に作られた扉を叩く音は、高く響くことは無く私の足元に落ちるだけ。落ちた音はきしむ床の隙間を抜け土に沈む。

「おおい、私だ。開けてくれ」
鉄の扉の奥から部屋の主の声が聞こえる。
「また来たの?あなたも暇な人ね」
「暇なもんか。私の店には客が絶えない。それも嬉しいことに彼らには多くの希望があるんだ。希望や夢を抱き、掴み取れる可能性は極めて少ない星に手を伸ばしている。そんな彼らと話をするのは私の楽しみの一つなんだ」
ヴァージナルの音色に女の声が乗る。
「じゃあさっさと帰って夢追い人たちの苦労話でも聞いてあげなさい。そして高い画材を売りつけるの。それがあなたにお似合いよ」
「そんなことは言わないで私の話も聞いてほしいんだ」
何度もこの扉を隔て口論してきたのだから、私にはもうわかっていた。気の強そうな声を出している彼女の内側には、繊細な弦が貼られている。音を出すために弦を弾くのをためらうほどの繊細さ。それを隠すように彼女は声を張る。
「いいからもう帰って。あなたと話すことなんて何もないの」
怒る彼女に聞こえるよう私はもう一度扉を強く叩く。私は人を怒らせるのが得意なのだ。
「君が私と話をしたくないことは知っている。だが私には君に話したいことがたくさんあるんだ。君が考える、君のための理屈が正論として通るこの部屋にいては、君のキャンパスは薄汚れていくだけだ」
私の言葉にヴァージナルの音色は止み、彼女の吐息のような静寂が私を包み込んだ。無くしてしまった家の鍵を一人で探す子供の背中のような寂しい静けさ。
 私は理由もなく下を向き半歩後ろに下がる。すると突然鉄の扉が開かれた。ジンクホワイトに薄くフレッシュピンクを混ぜ合わせた顔色の女性が顔を覗かせている。美を求めるために余分なものを削ぎ落とす前の素朴な顔。一切の色付けがされていないがゆえに、彼女には一欠けらの美しさがあった。
「何?また私に説教でもする気なの?」
彼女は怒っている。その理由は簡単にわかる気がしたが、私はあえてそこから目を逸らす。年老いてまで責任を負うことは、足枷を増やすことと同じだ。生きることにより増えていく足枷は、もう私は増やすことも出来ないほど多く身に着けている。
「説教ではない。それより見てごらん、降り続いていた雨がようやく止んだよ。地上に降り落ちた天からの雫が春の日差しに照らされている。私と少し外を歩かないか?」
彼女は眉間に皺を寄せ皮肉に笑う。
「どうして私があなたと歩かないといけないの? 理由は?」
「理由なんてないよ。ただこんな部屋に閉じこもってヴァージナルの音を奏でているよりは、私と外を歩く方がまだ有意義な時間が過ごせるから誘っているんだ。時には大地が奏でる自然の音を聞くのもいいものだよ。そうすれば殻に閉じこもっているのがきっと嫌になるさ。だからひとまず手を止めて外の空気を吸うんだ」
「それは理由というのよ」
「そうかな?」
「きっとそう」
短い言葉の後、彼女は自分の姿を見下ろす。服にエルテンスープでもこぼしたのだろうか。
「困ったわ?」
私は黙ったまま彼女の言葉の続きを待つ。
「あなたのお誘いに興味を引かれていることは否定できない。たまに外の空気を吸うことも悪くはない。でも駄目ね、この服は私のお気に入りなの。この服を着ていつまた雨が降りだすかもわからない外にお出かけすることは難しいわ。冷たい雨に打たれてこの服を濡らすのも嫌だし、その・・・」
何故か彼女は言い淀んだ。喉を詰まらせたように私を見る。もの目には申し訳なさの影がチラリ。
「何だい。言ってごらん」
彼女の大きな目で瞬きが二回。刹那の瞬間を撮影するカメラのようだ。
「これだけ私にとって悪条件が揃っている中で、それでも私を外へ連れ出すだけの魅力があなたには無いわ。残念なことだけどね」
夜の街に佇む街路灯の気持ちが私の内面と重なる。老いてもなお女性から断られることは辛く悲しい。だが老いとともに得た経験により傷は浅かった。
「それならば私はいないものと思って歩けばいい。私の事は忘れ歩くんだ。そして君は雨が上がった綺麗な道を歩く途中で気づく。こんなに美しい道を歩いているのに私は一人。ガラスの上を弾み踊る水滴のように瑞々しい鳥たちの鳴き声を聞き、君は急に一人が寂しくなる。そして、ひび割れた油絵のような気持ちで君は後ろを振り返る。そこには老人が立っていて、君は仕方なくも私に近づき一緒に歩く。それでいいじゃないか」
鉄の扉から顔を覗かせる女性の顔に好奇心が走り、薄く笑う。
「あなた女性と付き合ったことは?」
「ないよ、私の記憶する限りでは一度もないな。だから妻も子もいない」
女性は扉を大きく開き、顔を崩して笑った。
「でしょ?私こんなに女性を誘うの下手な人初めて見た。もうちょっとカッコいい言葉使わないとダメだよ、お爺ちゃん」
私は貶されたのだろうか。だが笑う彼女の顔に私を毛嫌いするような感情は見られない。私の誘い文句が酷いということは否定しないが、彼女が緊張の糸を緩めてくれたことに安心した。安心が傍らにある時、人生は充実を見せる。
 私は笑い続ける彼女に聞く。
「私の言葉はそんなにおかしかったかな」
「女性を誘ってるのになんだか腑抜けてて、それでいて強気でもあるから、聞いててお腹こちょばされてるように笑えてきちゃって。ごめんね」
小さな窓から差し込む健気な春の日差しと、暗い廊下で一人笑う女性。そのコントラストに私は掃き終えたホウキから宙に舞い出すホコリを重ねた。寂しい美しさ。悲しみはなくともそこには拭いきれない寂しさがあった。
 彼女は腰を折ったまま右手を上げた。
「何か久し振りに笑わせてもらったわ。そのお礼ってわけじゃないけれど、いいわ、一緒に歩いてあげる。何か私に話したいこともあるみたいだし」
「ありがとう」
彼女はようやく顔を上げると私の顔を見て、それから流れるように私の足元まで視線を泳がせた。
「今のは何だい」
ゆっくりと首を振る彼女。
「忠告は必要ないみたいね」
「忠告?」
「そう、悪い事しないようにって忠告よ」
彼女は部屋に半歩足を踏み入れ、振り返った。
「準備してくるから少し待ってて」
鉄の扉の前に再び一人残された私はため息をつく。今の私の姿を最近店によく来る彼ならどう描くだろう。きっと紫と黄緑色を点描させた背景に立つ私には赤と青緑を使い、ため息には青紫と黄色。後の世で後期印象派を代表する画家として知られる彼が描く私に思いをはせ、彼女を待つ。

 十数分後、外出の用意を終えた彼女の手により鉄の扉はまた開かれた。薄暗い廊下に立つことは辛いものがあったが、扉が開き出てくる誰かを待つという希望があると、廊下にも暖炉の暖かさが広がる。存在はしなくとも私を内側から温めてくれる暖炉。
必要としないかもしれないが、この暖かさが彼女にも伝わればいいと私は思う。どんな局面に立つにせよ、内面が暖かい時は幸せに触れていられるから。
 十数分待たされた後、外出の用意を終えた彼女の手により鉄の扉は開かれた。三日ぶりに美味しい紅茶を飲んだかのように、上機嫌に開いた扉の前には先ほどと同じ服装の彼女。万が一の雨にも濡らさないように、服を着替えていると思い込んでいた私は十数分前と一点も変化もない彼女に言う。
「着替えているものとばかり思っていたよ」
「着替えようと服を選んでいたのは確かよ。でも駄目ね、今日は服が私を招いてはくれなかった。こんな日は無理に選ばない方が正解なの」
「その原因にあるのは私かな。扉の前で待つのが素敵な紳士ではなく私であったため、クローゼットに並ぶ数十着の服たちは君に着られることを拒んだ。それはつまりは君の心の表れだ」
「そうじゃないの。確かにあなたが素敵な紳士より見劣りするのは事実よ。まだ誰も突き止めてもいない宇宙の真理のように確たる事実。でもそうじゃない。私は服を招くことが嫌なの。服を着るということは一種の意思表示であって、私という人間を周囲に知らしめる行為に近い。その行為には着る側と着られる側の一致が必要で、私だけの意見で着る服を決めても何だか一体感が出ないの。そんな時はどんなに高級な服でも駄目。美味しくないキャラメルを口の中に放り込んだ気分になっちゃう」
理路整然と服を着ることに対する理念を語っていたかと思えば、突然キャラメルという表現を使う。不思議な女性だ。
「君の言う事は半分理解した。残りは私自身が納得できるまでに時間が掛かりそうだ。だからそれは家に戻ってから考えることにする。それより早く行こう。君の部屋からもこの薄暗い廊下からも抜け出して、春の光を浴びるんだ」
「でもやっぱり雨が降らないか心配だわ」
「心配ないよ。雨が降って来るなら両腕を広げ全身に浴びてやろう。春の雨に打たれることも人生の楽しみの一つなんだから」
「お年寄りって面白い方が多いけれど、あなたは特別ね」
私は隙間風すら吹きそうな老いた胸を張る。
「たくさんのことを経験してきたからね。生きるほどに経験は積まれ、私という個人が確立された。確かに特別なのだろうね。君と同じように」
「私も特別?」
「特別さ。誰だって特別なものを持っている。特別であるがゆえに人は悩み成長していくんだ。わかるかな、悩みを持てることは特別な人間の証なんだ」
不思議そうな顔を見せる彼女を連れ、私は歩き始めた。薄暗く冷たい廊下の先にある春の日差しを求めて。

 外には春の日差しが満ち満ちていた。穏やかで陽気な空気がステップを踏み踊り出す、春という贈り物。毎年我々の元にやって来るのに、どんな筆と絵の具でも完璧に描くことの出来ない、愛しい空気と春の色。
眠くなる甘さに抱きしめられている私の隣で、彼女は冬の布団から起き上がった春のように、眠たげに目をこすっている。
「どうだい、春の肌触りは」
「私にはまだ刺激が強いみたい。春の色彩が靴も拭かずに私の中に入って来る」
新緑から一粒の雫が彼女の髪に落ちた。だが彼女にはその自然のイタズラを気に留める様子はなく、広がる春の隅々に意識を向けているようだった。
春の上に描き出されたような彼女の色彩に私は目を奪われる。自然と美の融合、人類が先の未来まで追い求める芸術品の香りがここに。
「で、どこに行くの?」
私は彼女に聞き返す。
「君の好きな色は?」
質問に質問で返した私に対し、更に質問をかぶせることは意思に反するらしく、彼女は考える表情になった。困惑の色を浮かべているが、それも仕方のないことだ。
 意味不明な老人の質問に、春を見上げながら彼女は答えた。
「青ね。海のような青が好き」
彼女らしい言葉に私はうなずき、新緑が芽吹き生命の音を奏でる並木歩道を指さす。
「ウルトラマリンブルーだね。フェルメールの愛した色だ。それならばあの道を行こう」
「どうして青ならあの並木道なの」
「深い理由はないよ」
彼女は笑い私を見る。
「浅くても理由はあるんでしょう。私はそれを知りたいの」
「答えに焦がれるほど、知った時の落胆は大きいよ。なんだ、こんなつまらない理由だったのかと」
「だから聞きたいの。答えに焦がれ焦燥の吐息を聞く前に」
「困ったな。君はすでに強く答えを望んでいる」
歩き始めた私の後ろを、彼女は風のようについてくる。目を覚ました花々の香りを乗せた春の風のよう。
「ねぇ、教えて」
「君が好きだと言った青と、並木道の色彩関係が美しかった。並木道の黄緑色、そして君の選んだ青。黄、緑、青これらは色彩を表す際に横一列に並ぶ色なんだ。素晴らしい回答だった」
「イランイラン、カモミール、ジャスミンみたいね。横一列に並んでいて互いを引き立て合うの」
「それは何かな?」
三つの言葉の意味や関連性を理解できていない私の反応を見て、彼女はずる賢く笑う。
「アロマよ。フローラル系の香りで私が好きな三種類。代表格のローズやラベンダーもいいけど、やっぱり私はこの三つが好き」
「意外な一面だな。君が香りに詳しいとは」
「人間は多面性の生物よ。ヴァージナルを弾くだけが私じゃないの」
私は後ろを歩く彼女を見る。
「いい日差しだ。春を歩こう」

 私たちは春を歩いた。春の並木道を歩き、春の景色を見て、春の香りを思い切り吸い込む。私たちは成熟前の空気に喜び、キャンパスに薄く暖かい春の色を描いていく。冬の名残を残した冷たい川のせせらぎの音が気持ちよく耳に届き、部屋から出ることを嫌がっていた彼女も春を満喫しているようだ。遠慮がちに手を開き歩く彼女に涼やかな風が吹き、それを受け入れるかのように一人笑う。その姿に私は風にそよぐ一輪の花を思った。
 私は目的の店に行くため街のメインストリートを指で示したが、彼女は首を横に振る。
「久し振りに部屋から出てばかりの私には、まだ人通りの多い道は辛いわ。それより私ちょっと行きたいところがあるの。道案内の役、少しの間だけ変わってもらってもいいかな?」
私の第一の目的は、部屋でヴァージナルを弾き続けていた彼女を外に出してやることだった。それが果たされた今、彼女の好まないメインストリートを歩く必要は何もない。それよりも彼女の道案内に期待を寄せる私がいた。
「いいよ、好きに歩くといい」
「ありがとう」
今日初めて私の前に立った彼女は足取り軽く、街のメインストリートに真っすぐ続く並木道を外れ右に折れた

 並木道を外れた私たちは簡易に舗装された道を歩き、街にクモの巣のように走る路地の一つに入った。いつもは湿っぽいこの街の路地も、今日は春に抱かれ柔らかな表情を見せていた。夕焼けに赤く染まりコーヒーと景色を楽しむ老人の顔のよう。
 彼女はそんな街の路地を足早に歩いて行く。後ろに年寄りが歩いているのも忘れたのか、振り向きもしない。表通りで人気のパン屋の厨房からはブリオッシュを焼く香りが漂い、息を切らしながらも私は好物の香りを吸い込み、水の中を泳ぐように彼女を追う。
 そろそろ音を上げそうになっていた私を気遣ってくれたのか、路地裏の素っ気ない広場の片隅で彼女は足を止めた。広場のベンチには街からあぶり出されたような人間達が座り、それでも陽気に会話をしている。この街の人間は人生に暴風が吹き荒れようと、陽気な心を捨て去らない。自慢の街に座り、自慢の街の空気を吸う。それこそが幸せの形なのかもしれない。街の端で人生の真ん中を歩く彼らから目を離し、私は地味な建物の薄く汚れた壁に耳を寄せる彼女を見る。
「そこで何をしているんだい」
眠るかのように壁に寄り添っていた彼女は目を開き、黙って私を手招きする。早くこっちに来て私と同じようにして、と声を出さずとも私に命じる意志の強い招き。
 苦笑いを浮かべ私は彼女の形を真似、壁に耳を寄せる。目を閉じることまで真似る必要はなかったのだろうが、壁に耳を当てる行為は必然的に目をつむりたくなるもので、私は必然の衝動に歯向かうことなく目を閉じ、壁の内側の音を探った。
 室内からは虫の音のように連続した機械音が聞こえて来た。彼女よりずいぶん長い時間を生きてきたため私にはすぐに音の正体が分かったが、楽しそうにこの音に興じる彼女に要らぬ気を使い、私は答えが分からない振りをした。
「この音は何だい」
彼女はすぐに振り向き私を見る。私と彼女が壁に耳を当てたままの鏡映りの体勢になり、年老いた私は恥じらいを感じたが、彼女は笑って答える。
「わからないの?信じられない。ミシンよ、ミシンの音」
私の予想通りの答えだった。
「ミシンか。それでこの音は何か特別な物なのかな」
小さく頷きかける彼女。こんなおかしな行為を楽しんでいても、彼女から知性の色が抜けないのが私には不思議だった。知性的な人間は何をしても知性を失わず、むしろ研ぎ澄まされてさえ見える。私が持たないものに嫉妬を感じないでもなかった。
「ここはね、ミラノでも有名な仕立て屋さんのお店なの。目が飛び出るような値段の布に躊躇なく線を引いて躊躇なくハサミで裁断する。そして依頼人の身体に合うように細かな調整を積み重ねた上で、ミシンで縫っていくの。私はその音が大好き。理由はないけれど私の内面に染み入ってくる音なの」
私は息をひそめもう一度壁に耳を寄せる。連続して布を縫うミシンの機械音から、彼女の言うものとは違うのかもしれないが、確かに愛しく暖かな音にも受け取れた。耳に続く音がソーダ水で薄めたスコッチのように、ほのかに私を酔わせた。
「どう?」
彼女から発せられた短い言葉も、壁から伝い漏れるミシンの音と同じように私の心を揺らす。恋愛感情ではなく人間的・心理的な感情が彼女に惹かれていることを私は知る。
「うん、落ち着くね。母親が作ってくれたココアのように心が安らぐよ」
彼女は淡い笑顔を浮かべる。
「私子供のころから辛いことがあると、ここに来てたの。そしてスカートが汚れるのも気にしないで座り込んでこの音を聞いていた。なんでだろう、わからないけれどこの音が私の支えだった。枯れ葉のように心が傷んでも、ここに来れば立ち直ることが出来たのよ。私は強くなくたっていい、弱いなら弱いなりに生きていければいいって思えたの」
彼女は言葉を止め、白い手も壁に寄せる。壁に貼りつくような体勢になった彼女の目から乾いた涙が落ちたように私には思えた。
「でも、いつの間にかここにも来れなくなっていた。あんなに好きな音だったのに。空っぽになるほど、空虚な自分が愛しく思えていたのかも。ここに来ちゃ駄目、来たら満たされて前を見る義務に悩まされるって。愛しい音から自分を切り離して、私は安全な私の中に閉じこもっちゃった。そしてそんな自分をごまかすようにヴァージナルを奏でるの。生きているという形を保つために」
私は指の先で壁にこびりついた茶色い汚れを削る。
「どうする?もう帰ろうか」
暗い声を出した私に彼女は笑う。
「ここまで来てどうして帰るの?お爺ちゃんが私を案内してくれるんでしょ。ここのミシンの音も聞けたし、私今日はどこへでもついて行ってあげるわよ」
「そうか、私はてっきり君が落ち込んだものと思っていたよ」
彼女は腰に手を当て私の顔を覗き込む。
「どうして? 私が落ち込むのは朝のスープが美味しくなかった時だけよ」
「私は妻の機嫌が悪い時に落ち込むよ。特に起き掛けに不機嫌な妻を見るのは最低の気分だ」
「あなたさっき妻はいないって言わなかった?」
「ああ、言ったよ」
口を半開きにして固まる彼女に私は言葉を続ける。
「私の頭の中にはしっかりと妻がいるんだ。私がダイニングに画材を持ち込むと妻はいつも怒る。『その油臭い絵の具をここで使わないで』『汚れた筆をテーブルの上に置かないで』とね。妻にとっては私の行動の全てが憎らしいのだろう」
「リビングは奥様の所有地帯なのね」
老人のたわごとにも耳を傾けてくれる彼女に感謝の花を一輪。
「それでも私が席を離れずにいると、妻は怒り私の頭に作りかけのグラーシュを鍋ごとかけるんだ。全く、酷いことだよ。まぁ想像上の妻だけどね」
「おかしな人ね」
「妻の事?」
「いいえ、あなたの事よ」
私は背を伸ばし春を一つ吸い込む。ヒメオドリコソウの香りを運ぶ春の味。
「それならよかった。さぁ、行こう。少し道を戻ることになるがいいだろう?」
「それも悪いことではないわね」
 息を切らせて始まった寄り道で、私たちは安らぎの森に椅子を置き息を落ち着かせ、再び歩き始めた。足は軽く、街には透明な華やかさが満ちているようだった。

 彼女は本当にこの街に来たのは久しぶりのようで、街の至る所に目を向けていた。色を選ばずとも洗練された色合いの街。そんな街が彼女には懐かしくもあり、変わりゆく外観に少し悲しみも感じているように見えた。
 先日オープンした黒を基調としたシックな店内に色とりどりの花を並べた花屋に足を止める彼女。小ぶりな扇を咲かせた花を彼女は愛おしそうに眺めている。
「もう11時だよ。早く行かないと店が混雑してしまうかもしれない」
「待って、この花を買っていくわ」
「帰りに買えばいい。まさか全部売り切れることなんて無いだろうし、花を持ち歩くのも邪魔だろう」
彼女は花屋の女性店員と顔を見合わせた。声を出さずとも伝わる会話をしているようだ。
彼女は首を傾け女性店員はそれにうなずいている。
「花との出会いは理屈では片付けられない神秘性があるの。出会い心惹かれた時に懐に包み込んであげないと駄目。人間と同じね、機会を逃せばどれだけ叫んでも思いは胸に響かない。抱きしめたいときに抱きしめてあげなくちゃ」
色とりどりの花の中に立つ彼女に、私は何も言えずに立ち尽くした。論理的ではないが倫理に触れる彼女の心の指先。あと何十年筆を持てば私はこの透明な美をキャンパスに描くことが出来るのだろうか
 結局彼女は三種類の花を一輪ずつ買い、身体に添わせるように当て私の隣を歩いている。
フランスパンのように花を抱く彼女と、遠くに見えるスカラ座の話をしていると、ようやく私の目的とする店が見えて来た。
「ああ、あった、あった。あそこだよ」
歩道の内側を歩いていた彼女からは店が見えないのか、私の前に顔を出し歩道の左側を埋め尽くす店に目をやる。
「ファッション関係の店しかないみたいだけど、私を案内したかったのってそういう店?服でも買ってくれるつもり?」
私は首を振る。
「そんな気はないよ。よく見てみなさい。ほら、高いヒールの女性が歩いている所」
私が指をさしたネイビーのトレンチレインコートを着た女性に、彼女の目が向けられ、瞬く間に女性から灰緑色の外観のカフェに視線を移した。一瞬しか彼女の視線を奪えなかった、この春最先端のファッションに身を包んだ女性の背中の切なさが私に染み入る。
「この街らしいカフェね」
「あのカフェは創業80年を超えるカフェでサンタンブロージュという店だ。世界的有名ブランドのヴェルサーチの創業者も通っていた店で、今でもファッションやオペラ関係者が多く通うミラノを象徴するカフェさ」
「そんな凄いカフェがこんな所にあったんだ」
「この街の近くに住んでいるのに知らなかったのかい?」
澄んだ横顔は私を映し出すかのよう。
「言ったでしょ。私、大通りとか人の多そうなところは最近はあまり歩かないの。でも何だかいろんなお店があって神様のタンスの様な街。どの引き出しを開けても素敵なものが詰まっていそう」
「でもたまには来てみて良かったんじゃないかね」
「悪くはないわね。隣に立つ人がうるさい男じゃないからかもしれないけど」
「確かに君の周りにはハエのような男たちが寄ってきそうだ」
私達は笑いながら老舗カフェの扉を開けた。

 硬い椅子に腰を降ろし、私は驚いたようにメニュー表に釘づけになっている彼女を見る。
「好きなものを選んでいいんだよ」
「私にはわからないものが多すぎるわ。あなたが決めて」
私は手渡されたメニュー表を閉じてテーブルに置き、彼女に聞く。
「ではコーヒーとアイスでいいかな? アイスは種類が多いけどどうする」
スズメの瞬きのような一瞬の間が私たちに流れ、彼女は笑みを浮かべる。
「ここはあなたが案内してくれたお店でしょう。だからあなたに任せるわ」
私はうなずき、店員が私の近くを通るのを待つ。店員を呼ぶことも可能だったが、私は忙しそうに客に対応している店員を呼びつけてまで注文するのが苦手だった。慌てなくてもコーヒーとバニラアイスは私たちの元に必ず来るであろうし、彼女も待つことを苦としない人間のように思えた。それならばわざわざ店員を呼びつける必要はない。このような女性といると、待つことさえ有意義な時間に変えてくれる。
 言葉を交わし合い数分後にようやく店員を捕まえ、私は二人分のコーヒーとアイスを注文した。長年この街の中心で店を続けてきただけのことはあり、おかしな組み合わせの私と彼女に対しても手際のよい愛想よさで我々の注文を受け、風のように注文票を店の奥に運こんで行った。
彼女はその店員の姿がカウンターの隅に消えるまで目で追い、忘れていたかのように私に目を向ける。
「いい店ね」
「この街で私が二番目に気に入っている店だからね」
「あなたにとってここは最上の店ではないのね」
彼女はテーブルに肘を乗せ、猫のように丸めた手の甲に口を寄せた。おそらく意識せずに整えられたその姿勢は、挑戦的な空気がまとわれていた。カフェで向かいの席に座る女性たちは皆、手練れたカジノディーラーの顔を見せる。
「私の中で最も上にランク付けされている店も老舗でね、コーヒーが格段に美味しいんだ。でも残念なことに、私はあの店に女性を連れていく勇気はないな。コーヒー好きの女性ならまだいいかもしれないが、ほとんど中身を見せてくれない君をそこに連れてはいけなかった。だからその店から一つ階段を降りたここにした。この店は女性からの人気も高いと聞いていたからね」
「私はコーヒー好きよ。下手なお世辞よりも私の心をなだめてくれる」
「それなら後でその店の住所を教えてあげるよ。今度行ってみるといい」
「そこの住所を知る必要はないわ」
私が目を見ると、彼女はわざと首をすくめる。
「またあなたに案内してもらえばそれで済む話でしょう。住所を書きインクを減らす必要はない」
「嬉しい言葉だけど、私に優秀なダンディズムを期待してはいけないよ。女性をエスコートした経験の極めて少ない人間だからね」
「その割には今日は水晶玉のように綺麗なエスコートをしてくれているじゃない。好きよ、私。あなたのエスコート」
私は褒められた嬉しさを隠し、フォーレのレクイエムを弾くように静かに言葉を続ける。
「路地裏で息を切らせはしたがね」
「あれは私が急いだから。あなたのせいじゃない」
「でも安心したよ」
形の悪いワイングラスのように顔を傾ける彼女。
「せっかく久し振りに外を歩くのに、こんな老人がいては邪魔になると思っていたから、君に不快感を与えていないことに安心したという事」
「あなたは年老いている分、そこら辺の気取ったお坊ちゃま達より多くのことを教えてくれる。あなたと歩く春の街はここ数年で一番綺麗だった。年を取ったからって自分の価値が落ちたと思わないでね」
何故か彼女に諭され、私は小さく礼を言う。
「ありがとう」
 その時、私の言葉がかすむくらい大きな女性店員がテーブルの横に立ち、私達が注文したものを置いていった。綺麗な店内に並べられた品のあるテーブルの上に乗せられた、二つのコーヒーと二つのバニラアイス。それは妙に寂しい光景であったが、彼女は感慨の声を上げてくれる。
「わぁ、何だか素敵」
「こんな質素なテーブルに喜んでもらって嬉しいよ」
「時にはシンプルなテーブルの飾りも必要。それがコーヒーとバニラアイスだなんていい事じゃない。広いステージの上のバレエダンサーみたい。どんな踊りを見せてくれるのか楽しみ」
「優雅に回転は出来ずとも、爪先立ちくらいは上手にやってくれるはずだが」
私がコーヒーカップを持ち上げ香りを楽しむと、彼女も私を真似て香りに顔を近づけた。
目には見えない香りに浸り、穏やかに目をつむる彼女の表情は妖艶にさえ見えた。
「どうだい?」
彼女は香りの中から眼球だけ上に向け私を見る。
「私が普段飲んでいるコーヒーとは全然違うわ。甘く上品な香り。それでいて自信に満ちている。早く飲んでって私を誘っているみたい」
恐らく上等なコーヒーを知らない彼女にしては優秀な答えだった。
「誘われるがまま飲んでみたらいい」
「ええ」
彼女はコーヒーカップに口をつけ、まだ熱いコーヒーを口内に送り届けた。熱に一度顔をしかめはしたが、彼女はコーヒーを口に含み、一遊びの味わいを終え喉に通した。
「美味しいわ。苦みと酸味が調和している。上手くは言えないけれど学校で一番優秀な生徒って感じ。勉強もスポーツも恋愛もバランスよくこなしている子みたい」
私の反応を伺う彼女に、ゆっくりとうなずいてやる。
「言い得て妙だな。君の表現はつたない所もあるが、満点に近い点数を与えることを私は躊躇しないよ。それだけ君はこのコーヒーの優れた点を見抜いている」
「本当」
春の陽気のように笑顔を見せた彼女からは妖艶さは消えたが、年相応の女性らしい花の様な空気もまた晴れやかに私の心をくすぐった。
「これはコーヒーの王様とも言われていて、君が言った甘み・コク・酸味・苦みを全て高いレベルで兼ね備えている万能選手なんだ。特にこの店では大粒の豆を使っているため、高品質・高水準な味わいで私達を楽しませてくれる」
「完璧な彫刻作品のようね。ちょっと安っぽい表現だったかもしれないけど」
「安っぽくなんかないよ、その通りだ。これほど均整の取れたコーヒーを私は知らない」
出勤前の人間が時計を気にするように、彼女はテーブルに置かれたバニラアイスを見た。
「それも食べていいんだよ」
「でも私の周りでも怒る人いるよ。コーヒーと甘いものを合わせるなんて邪道だって」
私は笑う。きっと彼女は私がコーヒー好きなのを気にして、世の評論家たちの述べるコーヒーの作法から外れる動きをすることをためらったのだろう。私のことなど気にする必要は全く無いのに。
「いいんだよ。無理に正しい飲み食いをする必要はない。人には人それぞれの楽しみ方がある。形ばかり気にしていたら、せっかくの豊かな時間が遠のいてしまう。さぁ、どうぞ」
彼女の顔に幼げな笑みが一つ浮かぶ。
「本当のお爺ちゃんみたいね」
「そうではないよ。私は結婚すらしたことが無いんだ」
「理屈屋さん」
「老いることに比例して理屈の数も増えていくのさ」
「また理屈」
スプーンですくったバニラアイスを食べ、彼女は再びコーヒーを飲んだ。
左手にスプーン、右手にコーヒーカップを持つという不格好さ。飾らぬままの美しさが私の前にあった。
「本当に美味しい。こんなにシンプルな組み合わせなのに…うん、出会えた喜びと幸せを感じさせてくれる。不思議ね、テーブルの上は物寂しいくらい質素なのに、フルコースの料理のように私を楽しませてくれる。私って貧乏舌なのかな」
「コーヒーとバニラアイスで、フルコース並みの喜びを感じられる事。それも一つの才能だよ」
「優しいのね、タンギーお爺ちゃん」
私には彼女が輝いたように見えた。深く儚い輝き。
「私を知っているのかい?」
「何日も扉を叩かれている間は、あなたのことは迷惑な人との認識しかなかった。でもこうして顔を見ながら話していると分かってきたの。あなたの背景が教えてくれたのかしら」
彼女の言葉に私は振り向いたが、そこには空席のテーブルと椅子があるだけだった。
「何も見えないが」
「きっと自分の背景はその目で見ることが出来ないのよ。振り返れば背景はそのままあなたの背中に移動する。永遠に続く追いかけっこね」
「私の背景には何が見えているのか教えてもらいたいな」
「私にはあなたのような知識はないから上手く伝えられないとは思うけれど、それでもいいなら見たままを伝えてあげる。今日のお礼よ」
「知識が無ければ的確に表現できない物が、私の背景に映っているのか。尚更興味がわいてきた」
彼女はワードパズルに挑むような目で私を、いや私の背景を見る。
「絵画ね」
「絵画?」
「ええ、大きな緩さを持ちながらそれでいて繊細。そして明確な線。それらが私は見たことのない絵の具で描かれている」
「情報が少ないな。まるで実態がつかめない。雲にソースをかけて食卓に出されたみたいだ。
皿の上に広がるのはこぼれ落ちたソースだけ」
「だから言ったでしょう。私には美術的な知識はないの」
私はテーブルの上のコーヒーを一口飲む。先ほどよりも少し強い酸味が顔を覗かせていた。
「具体的に説明してほしいな。それは一体どんな絵画なんだい。何がどう描かれている」
彼女は一瞬迷った表情を見せたが、そこに佇むことなく口を開く。
「見たことのない優雅な服を着て、強くメイクをした女性の絵画が3枚はあるわね。それに花の絵にピンク色の葉を咲かせた木々。後は雨が降る橋の上を変な帽子をかぶって歩く人々の絵画。それがハッキリと大胆に描かれているわ。そしてどの絵も影を持っていない。異文化の絵画みたいだけれど、どこか私達の心に触れる美しさがあるわ」
彼女の言葉に私は手を叩く。隣の席に座る小奇麗な女性客二人がいぶかしげな視線を私に向けたが、今の私にとってそれは些細な問題にも値しないものだった。
「わかったぞ。その絵画の女性たちは美しい髪飾りを付けているだろう」
「どうしてわかったの?確かに髪飾りを付けているわ。でもこんなに派手な髪飾りでは、私は外を歩けないわね」
「私の店は画材や美術品を扱っているんだ。そして客もそれを使ったり、興味を示す者たちばかり。そんな店の店主をしていれば美術品にも詳しくなるさ。私自身、美術品は大好きだしね」
肘をつき指を重ねた手の甲の上に彼女は顎を乗せ、私を見る。
「答えを教えて。絵画を見ている私が、見えていないあなたにこんな質問するのもおかしな話だけど、あなたの後ろに映る絵画の正体が知りたいの」
「まだ確信のツタを掴んだだけで私の胸に引き寄せたわけではないが、君の知的好奇心のために答えよう。きっとこれは浮世絵だよ」
見えない背景を指さす私に彼女は聞く。
「浮世絵?聞いたことが無いわ」
「それはそうだろう。私達が浮世絵に触れあえる機会は極めて少ないからね。浮世絵は日本という国の絵画で、その作成法を知った時私は驚いた。なんと浮世絵とは絵の具を使いキャンパスに描いたものではないんだ」
「描かなければ絵にはならないわ。息を吸わなければ心臓だって止まってしまう」
知を求める人間に、その答えを教えられる喜びは私の胸を高ぶらせる。
「そう思うだろう。だが違うんだよ。描かなくとも絵画は作成できるんだ。まず下絵を書く、そして下絵の通りに版木を彫り、彫った版木に鉱物や植物から採取した天然顔料を塗り紙に擦る。それが浮世絵さ。私の画材店によく来るゴッホという青年が、大層その浮世絵を好んでいてね、浮世絵の収集に必死になっているんだ。彼は必ず大成すると私は信じているよ」
私の話を聞き彼女は笑う。
「何か可笑しかったかな?」
「ごめんね、難しい話なのに随分楽しそうに話すから何だかおかしくて。それに…」
「それになんだい」
「あなたの背景の浮世絵がまるで動き出すかのように生き生きと見えて。不思議ね、あなたの背景に何故浮世絵の絵画があるのか、そしてその浮世絵の背景があってこそのあなたにも思えてくる」
「わからないな。わからないけれど、ありがたいことだね。出来ることならいつまでも君に見えている背景を背負っていきたいよ」
「いつまでもずっと、浮世絵と一緒に。それがあなたらしいわ、タンギーお爺ちゃん」
「違うよ、タンギー爺さんだ」
私達は視線を結び笑い合った。はたから見れば意味不明な話で笑う奇妙な光景に映ったであろうが、私たちはそれで構わなかった。楽しい時、笑う以外には何が出来るのであろうか。

 空になったコーヒーカップと小皿が二つずつ並ぶテーブルで、彼女は大きく息を吐いた。
「はぁ~、こんなに美味しいコーヒーとアイスを食べて、こんなに楽しいお爺ちゃんと会話できるなんて、今日は楽しかったなぁ」
「たまには外に出てみて良かっただろう」
窓の外に泳がせていた視線を、彼女は私に戻した。
「あなたがいてくれたからよ。ありがとうタンギーさん」
「嬉しい言葉だけど私は関係ないよ。閉じこもっていた部屋から出たら、楽しいのは当然のことさ。自分の足で歩く外の世界にはいつだって春の空気がある。例えそれが極寒の冬であろうとね」
「冬は冬よ。極寒の世界に春があるなんて、ゴムボールをビー玉と言い張るようなもの」
私は顔の前で立てた人差し指を振る。おいぼれの勝ち誇った顔が彼女にはどう映っただろう。
「それは君が、冬を冬と決め込んでいるからだよ。探せば冷たい冬の中にだって必ず春は見つかる。足りないものがあれば探せばいいんだ。そうすればきっとそれは君の手にいつか握られる」
少し考え微笑みを見せる彼女。
「そっか、冬だと思っていればいつでも冬だし、春だと思えばコートが手離せない季節でも、今日のように楽しめるのかもね。気持ちの持ちようではいつだって春を歩けるのね」
私も意味もなくコーヒーカップの横で昼寝をしていたスプーンを持ち上げる。
「そうさ、我々はいつだって春を歩けるんだ。逆に辛い気持ちや悲しい気持ちをいつまでも引きずっていては年中が冬になってしまう。そんな時は自分で春を探して呼び込んでやるんだ。そして冬の中にいる人がいれば君の春を分けてやればいい。誰かに手を差し伸べること、それは人間が出来る最も正しい行動だと思うよ」
「あなたが私にしてくれたように」
意気込んで話をしていたことが急に恥ずかしくなり、私は笑いながら足元を見る。
「そろそろ出ようか」
「そうね、いい時間ね」
外はまだ明るいのに急に一日の終わりが来たような気がして、寂しさに揺れながら席を立つ。そんな私に彼女が一言。
「ちょっと待って」
彼女は慌てるように先ほど購入した花を包んでいる紙を開き、瑠璃色の花を一輪私に差し出した。
「これ持って行って」
私は老いた脳を稼働させたが、彼女の行動の意味することは見当もつかなかった。
「どういうことかな?」
渡された花を両手で摘まむ私を彼女は笑って見ている。
「似合ってるわよ、お爺ちゃん」
「否定はしないよ。私に最も近い色の花だ。だがこの花を持たされた理由がわからないんだ」
「簡単な話よ。その花が枯れる前にもう一度私の部屋の扉を叩いて」
手に持たれた花から漂う香りが、私の心を瑠璃色に染めた。
「いいのかな。また、訪ねて行っても?」
「あなたとなら、いつでも春の道を歩けそうだから」
「そうか。それならまた春を歩こう」
「待っているわ。また扉が叩かれるのを」
私はカフェの出口を手で示す。
「さぁ、帰ろう」
歩き始めた彼女に追い抜かされないようにし、私はカフェの扉を開けてやる。
 先ほどよりも強くなった春の日差しに私は目を細めたが、彼女は平気な様子で道を歩いて行く。出来立てのパンケーキのような陽気さで、メープルシロップのように甘い春の空気を全身にまとい歩く彼女。その背中に私は一つの疑問を浮かべる。
「私達は同じ道を通ってこのカフェに来たはずだ」
「そうね」
「ならば必然的に帰り道も同じとなるはずでは」
「そうよ」
「では何故あの店で花を渡したのかな。君の家の前で渡してくれればそれでよかったのに。おかげで私は人の注目を浴びながら街を歩くことになった。花一輪を持ち歩く老人、明らかに異質だ」
彼女は振り返った。その顔には強い笑み、この街の春のような表情。
「お返しよ」
「何の?」
「何日も朝からやかましく扉を叩いたことのお返し。次はもっと優しく叩いてね」
彼女はあんなに嫌がっていたメインストリートへ向かい歩を進めて行く。随分と軽快な足取りを私は追う。
「おい、待ってくれ」
明るい春の街に私の声が響いた。

                             芝本丈


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posted by シバモト at 19:15| Comment(0) | 読み物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

チョコレートの距離 刻む秒針



今日は読み物を。
今回使わせていただいた作品はベルナール・シャロワの『ル・ジャルダン』と冷たい画家と言われるフェリックス・ヴァロットンの作品を使わせていただきました。
charoy_jardin1.jpgb0044404_2114461.jpg



お気に召すかどうかはわかりませんがお読みいただけたら光栄です









静かな午後の半ば過ぎ、時計の秒針が僕の背中に落ち、僕たちの時間は止まった。

白く整理整頓された部屋にかけられた時計の針が止まり、今日でちょうど一カ月。
カチカチと時を刻む音が聞こえなくなったのはいいことだ。時間の中に僕だけが取り残されているという事実が、確証ではなくなる気がしたから。
しかし刻々と過ぎていく時間の中で、自分の唯一の役割を放棄した掛け時計の物悲しさは、アスファルトを跳ねるカエルのようだ。行き場なく朽ち果てるのみ。インテリア時計として街角の小洒落た雑貨屋から僕の部屋に連れてこられたあの鉄くずも、いずれは彼女に見放され廃棄処分への道をたどるのだろう。

 紙を折る手を休め、針を動かさずとも堂々と僕の部屋の壁に居座る、彼女曰くヨーロッパ風のレトロなインテリア時計を眺めていた僕に、鉄くずの購入者の声がかけられた。それはまるで寝坊した子供を布団から引きずり出すような声。
「いつまでそうしてるつもり?」
この部屋と同じく、白く整えられた容姿を持つ彼女の口から発せられた言葉は、僕に対する嫌悪感を隠す様子はまるでない。人に対する彼女の怒りのゲージはそれほど低くはないのだが、何故か僕の行動は彼女の怒りに触れるようだ。それを認識している僕は淡々と声を出す。怒りに対し真っ向から怒りをぶつけるのは愚か者のすることだ。
「何の事?」
「聞かなくてもわかることは聞かないで。それよ、折り紙。私はあなたが紙を折っている姿が大嫌いなの。仕事に就いてもすぐにやめて折り紙ばっかり。あなたはその時計と同じ。一度止まったら再び動き出そうとすらしない」
僕は彼女を見ずに紙を折り続ける。今回挑戦しているのはペガサスだ。紙を3枚使用する僕にしては大作のため、息をするように怒る彼女に目を向けている暇などない。この紙にペガサスの姿を与え羽ばたかせてやるのが今の僕の使命なのだ。その背中に乗りペガサスを操ろうなどという横柄な気持ちは微塵もないけれどね。
「こうしていることによって僕の心は安らぐんだ。社会には何の益ももたらすことのできない僕だけど、ただの紙には得られない価値を、命を与えてやることが出来る。この行為を君がどうかしていると思うことについて、僕は怒りを感じることは無いよ。君は立派な女性だし、社会の一員でもある」
僕は紙を折り続けながら、彼女の息遣いに耳を寄せる。フェンネルの紅茶を愛飲する彼女の呼吸にはスパイシーな緑が香りがほのかに乗る。きっと怒りを覗かせている今でも彼女の周りにはフェンネルの花が揺れているのだろう。
「社会から見れば僕のような存在など害虫だろう。ううん、人に害すら与えることのできない僕は石ころと同じかもしれないな。石ころと同じ無価値な存在。そんな僕を社会の一員である君がどんな目で見ているか、僕にはよくわかる。ただこれだけは忘れないでほしいな。そんな目を僕に向けるということは、僕が君に同様の視線を送ることを許容したことと同じなんだ。人を見下すということは、その見下される人と同じ位置に立たなければできないんだ」
僕の言葉に呆れたのか、彼女のため息が聞こえた。
「あなたとこの部屋にいると頭が痛くなってくる。私出かけるわ」
僕が初めて顔を上げると、彼女はハチミツと林檎のジンジャーエールを作る手を止め、キッチンを片付け始めていた。彼女は本当に出来た人で、僕のために得意なジンジャーエールをいつでも作ってくれる。「ジンジャーエール作るけれど何がいい?」と優しく聞く彼女に、僕は洋梨のジンジャーエールが飲みたいにも拘らずいつも「ハチミツと林檎のジンジャーエール」と答える。彼女が洋梨よりハチミツと林檎のジンジャーエールが好きなことを知っているのに、僕なんかの我がままを通すわけには行けない。僕に美味しいジンジャーエールを作ってくれる彼女の笑顔を壊したくはなかった。
 
 僕は立ち上がり、お気に入りの紺色のカーディガンを羽織る彼女に聞く。
「もうすぐお昼だよ。こんな時間にどこ行くの?」
「散歩よ。石ころのように部屋で転がっていればいいわ」
「待って、僕も行くよ」
僕はグレーのジャケットを急いで取り出し、部屋着の上に重ねる。その際にハンガーが床にポトリと落ちた。彼女はすでに一人部屋を出て行ったが、落ちたことを認識しながらハンガーを拾わずに行くのは心苦しくなり、指先で摘まみ上げクローゼットにかけ、今年で5年目の革靴を履き部屋を出る。時計が止まってから、僕と彼女のチョコレートの距離は消えた。

「待ってよ、ねぇ」
16戸だけの小さなマンションから出て、一人街を歩く彼女の背を追う。羽織った少し長めのカーディガンを風になびかせ歩く彼女の後ろ姿は、それだけで美しかった。優しく美しい神様の涙のような存在。こんな僕には絶対にもったいない人。野生の猿が世界一の高性能パソコンを持っているようなもの。キーボードの隙間は食べカスのバナナだらけ。
呼び止める僕の声が聞こえたようで、彼女は振り向いた。無表情を装ってはいるが、素直に立ち止まり走るのが遅い僕を待っていてくれる彼女は本当に優しい。怒っていても優しさが隠せない彼女の不器用さ、僕は好きだ。だからこそこんな僕の元には置いておけないとも思う。僕という檻の中に居ては彼女が可哀想だ。
「散歩ってどこに行くの?」
「どこに行くかなんて決まってないわ。だってこれは散歩なんだもん。風の吹くまま気の向くまま道を歩くの。そしてお腹がすけばパンかクッキーでも買ってたべてもいいし、喉が渇けばフルーツジュースを飲む。散歩にルールなんてない、自由に歩くの」
僕は覗き込むように彼女の横顔を見る。
「僕がついてきたこと、怒ってないの?」
「それに怒る理由はないわ」
「でも君は今確かに怒っている。どうして?」
薄いメイクをしただけの彼女も僕に目を向ける。
「無価値な人なんていないのよ。人間には誰にだって価値があるの。私にだってあなたにだって絶対に。ただそういうものは自分では見つけづらいから、自分を見失ってしまう人もいる。だけど無価値な人なんていない。誓ってもいいわ。私は折り紙をしているあなたが嫌いじゃないの。ただ上手くいかないからといって自分を無価値だとか見限るあなたの考えが嫌なの。だから自分の事を石ころみたいだなんてもう言わないで。そんなこと思っていたら心はどんどん汚れていくわ」
彼女の真剣な口調と目に僕はうなずく。
「うん」
下を向いた僕は彼女が水筒を持っていることに初めて気が付いた。彼女は大きめの水筒を肩から斜めにかけている。
「水筒持ってきたんだ」
「そうよ、お散歩に水筒は必要不可欠だから」
「用意がいいんだね」
「まあね」
彼女は小さく首を回し頬にかかった髪を払っている。
「じゃあ紙コップも?」
彼女はベージュのバッグを開き、中を探る。どうかしたのだろうか、閉じたままの唇を大きく左右に伸ばしている。困った時の彼女の癖だ。
彼女は手を止め、諦めたように顔を上げる
「忘れたわ」
バッグを腰に当て彼女は笑った。誰に言われるでもなく水面で神秘的に咲く睡蓮のような、僕の大好きな笑顔。
「どうする、部屋まで戻って持ってこようか?」
「そんなことしなくてもいいわよ。紙コップなんてどこでも売っているだろうし、なかったら水筒の蓋で飲めばいいのよ」
「でも蓋は一つしかない。でも僕たちは二人。これは大変な問題になるかもしれないよ」
コップ代わりの蓋が一つしかないことに焦る僕の脇腹を、茶化すように彼女がつついた。柔らかい指先。
「何よ、私と同じ蓋で飲むのは嫌?」
「ううん、そんなことないよ。でも君が嫌じゃないかなと思ってさ」
彼女は背を伸ばし、何も言わずに僕の頭をゆっくりと二度撫でた。これは彼女からの「心配しなくていいのよ」の合図だ。暗い山林の一部を照らす陽だまりのような温かさ。
 僕の表情を確認し彼女は一人歩き出した。
「さぁ、一緒に歩こう。こんなに穏やかな風と穏やかな空気があるんだもん。きっと私達の間違いだって許してくれるわ。歩いて仲直りしよ」
二人の喧嘩の原因を作ったのは僕なのに、仲直りの鍵を出してくれるのはいつも彼女だ。どうして君はそんなに優しいの? 僕は心の中で彼女の背中に問いかけた。

 肌を撫でる柔らかい風に吹かれ、僕たちは街路樹が静かに並ぶ色彩豊かな街を歩いた。風邪をひいた日のマルク・シャガールが色付けしたような街。久し振りに一緒に歩く街はいつもより明るく見え、彼女の声は秋の青空のように高く澄んでいた。初めて訪れた街のように路面店を見回す彼女の姿が僕にはたまらなく愛しく、そんなこと出来るわけもないのに彼女の背中を抱き留めたくなり、その時の彼女の表情を思い浮かべ一人笑う。きっとお洒落なバーで二つ隣に座る紳士が、突然シガーをカウンターに放り出しワイングラスを頭に乗せた時のような驚愕の表情をするに違いない。
 そんな僕に秋の空の音が鳴った。
「何してるの、こっちおいでよ。美味しそうなパン屋さんを見つけたの」
美味しそうなパン屋さん。パン屋さんは食べられないよと内心でつぶやき、手を振る彼女の元へ急いだ。
 少し古ぼけた外観の店には焼けたパンの香ばしさが漂い、店の中には陳列棚にはたくさんのパンが並べられていた。パン屋の店主らしき女性と彼女の話す声が聞こえてくる。
「このパンは何て言うんですか?」
「これはプレッツェルと言ってドイツ生まれのパンなのよ。成型方法は独特で、生地を紐状にして腕を組んだように結び合わせるの。小麦粉とイースト、それに塩と水から作られていて、焼く前にラウゲン液に漬けてから焼くの。トッピングは岩塩の粗塩が普通なんだけど、私のおばあちゃんはキャラメルを塗ってくれてたわ。子供の私が食べやすいようにね」
「わぁ美味しそう。それじゃあおばさんはドイツ出身なんですか?」
「そうよ、ドイツ南部のシュバルツバルト地方で生まれて、成人してからこの国へ来たの」
「じゃあおばさんの出身地のパンも紹介してほしいな。そのシュバルツバルトってところのパンありますか?」
太り気味の女性店主は腕まくりをして彼女の注文に応える。
「その言葉を待ってたのよ。シュバルツバルトは黒い森とも言われていてね、パンもその地名を模して作られているから色が独特なのよ。ほら、これよ。シュバルツバルトブロートというパンで焼成直前に生地表面に糖蜜を塗って焼き上げるの。見た目は悪いと思うかもしれないけれど本当に美味しいパンよ。おばさんの故郷の味だからね」
「本当に独特な見た目ですね。でもいい香り」
「でしょ。ちょっと待ってて、あなたとてもいい子だから味見させてあげる。ちょっと切って来るから待っててね」
「切らなくていいよ、おばさん。私大丈夫だから」
すでにカウンターの奥に消えた女性店主の声が、店内に響く。
「心配しなくていいの。あのね、形が悪くて売り物に出来ないのがあったから、それ切るだけだから。待っててよ、お姉ちゃん」
彼女は笑い僕を見る。
「味見させてくれるって。こっちきて、一緒に食べよ」
ナッツの上に焦げる寸前の香ばしいキャラメルを垂らし焼いたパンを眺めていた僕も顔を上げ、彼女に笑って見せる。
「凄い勢いのおばさんだね。僕一人なら飲み込まれてしまいそうだ」
僕が彼女の所へ行き、パンを見ながら話をしていると女性店主は皿を持ってすぐに戻って来た。皿の上には黒い森を模したというパンが二切れ乗っている。
 女性店主は彼女の隣に立つ僕を見て、驚きの表情を見せた。
「あら、二人連れだったのね。こちらは旦那さん?」
女性店主のすっとんきょうな思い違いに彼女は笑った。
「違いますって、彼氏ですよ。まだ同棲してるだけ」
旦那ではないという事実を伝えながらも彼女は僕の手を優しく握ってくれた。きっと傷つきやすい僕が傷つかないように。そして伝えることが苦手な好意を、僕に理解してもらうために。だから僕は彼女のほのかに暖かく薄い手を、少しだけ強めに握り返す。大丈夫、僕はわかっているよ。君が望んでくれるなら僕はずっと君といる。
彼女は小さな口にパンを頬張り、僕にもパンの一切れを差し出す。よく見ると薄く切られたパンにはクリームチーズが塗られていた。白いお皿の上に寂しく乗るパンの姿に、僕は何故か子供の頃何度も遊びに行った祖父母の家の香りを思い出す。秋の夕暮れのなか椅子に座り僕に微笑む祖父母の姿。遠い日の二人の姿と香りに急に涙腺が緩み、僕は泣き出さないようパンを口に放り込んだ。彼女は女性店主を見る。
「うん、これ本当に美味しい。歯ごたえもあってライ麦みたいだけど、小麦粉の香りがする。これにレーズンとか入れても美味しそう」
「レーズン好きだもんね」
うなずく彼女に店主は言う。
「あなた鋭いわね。ドイツパンにはライ麦を使ったものが多いけれど、これは小麦粉を使っているの。フルーツワインと合わせてもいいし、あなたの言う通りこのパンにレーズンやイチジクを入れることもあるわ」
彼女は笑い、僕に視線を向ける。『どう?凄いでしょ』
僕も同じように彼女の目を見る。『君は本当に凄いよ。まるでパンの女神さまだ』
時計が止まって以来の、本当に久しぶりの視線での会話。僕たちだけの得意技でもある。
僕たちが視線だけの会話を交わしていると店主が「お似合いの二人ね」とつぶやいた。
その言葉で視線遊びは中断され、彼女はパンの注文を始めた。
彼女は決して多く食べれる方ではないが、気に入った店を見つけると食べきれないほどの量を選んでしまう癖がある。けれど彼女は全てのものに感謝の気持ちを持てる人だから、余っても絶対に捨てることはせず無理をしてでも食べきるのだ。そしてお腹がパンパンにも拘らず満足した表情を僕に見せる。その表情も僕は好きなのだけれど、彼女には無理をしてほしくはなく、小声で告げる。
「あんまり買いすぎちゃ駄目だよ。君と僕で食べきれる量を見極めないとね」
「わかってるわ」
それでも彼女はお腹の定量にクロワッサン一個分足りないくらいの量を買ってしまった。
最後に彼女が女性店主の故郷のパンをトレイに乗せると、店主は随分と喜び「内緒よ」と僕たち以外に誰もいない店内で人差し指を立て、シュバルツバルトブロートに彼女の好きなレーズンとイチジクを入れて作ってあげるとサービスを申し出て、パンが焼き上がるまで僕たちは少しの間待つことになった。そして女性店主が僕たちに一言。
「イチジクの花言葉は『実りある恋』『子宝に恵まれる』なのよ」
僕たちは顔を赤らめお互いの顔を見た。首をすくめ見つめあう二人の姿は実に滑稽なものに映っただろう。

 店から出て僕たちは噴水がある広場のベンチに座った。僕と彼女の間にはチョコレート一枚分の距離。自ら吹き上げた水で美しい造形を描く噴水の周囲を、風船を持った男の子が一人声を上げて走り、その姿を微笑み見つめる母親の姿。どんなものにも代えがたい幸福で幸せな光景に、僕はまた泣き出しそうになり涙を堪えた。
 どうして僕の感情は高ぶりやすいのだろう。世界一の船乗りでも乗りこなせない感情の波が、僕の胸の内に常に打ち寄せ続けている。
「どうしたの」
僕の意思に反して眼球から溢れだしてくる涙を拭っていると、彼女が不思議そうに声をかけて来た。心配性な彼女に僕は笑顔を見せる。
「なんでもないよ。ちょっと眠たかっただけ」
彼女も僕と同じように笑った。世界中から集めた幸せが僕の隣にある。
僕たちは小鳥が巣から旅立つくらいの短い時間見つめ合った。雲の上から杖を振る神様が与えてくれたかのような幸せな時間。しかし幸せな時間にはイタズラ猫が付いて回る。
「さっきお店の中で泣いていたでしょう」
楽しそうなイタズラ猫の声。
「泣いてないよ」
「嘘。おばさんが出してくれたパンを見て泣いてたわ」
僕は言葉に詰まる。僕は嘘をつくことも苦手なのだ。
「少し涙ぐんだだけ。あのパンがおばあちゃんが作ってくれたパンに何となく似ていたから、昔を思い出しちゃってさ」
彼女は僕から目を離し空を見上げる。彼女の心をそのまま映し出したかのような一点の濁りもない綺麗な空。世界中の人々が心にこんな空を持っていれば、争いなど起きないはずだ。天秤の上に軍事力を載せどちらが偉大かを測りあう国々の寂しさ。何故笑顔の多さでは国力を測れないのだろう。
「子供の頃のあなたも見てみたいな。どんな子だったんだろう。きっと真面目でお行儀のいい子。けど目を離すとイタズラを始めちゃう元気な子なんだろうな」
僕は自分の知る幼き日の僕と、彼女の想像上の子供の時の僕を重ね合わせる。彼女は過去を覗き込める目を持っているのだろうか。微々たる違いこそあれど、彼女が思い浮かべている僕は限りなく僕に近い。
 あえて彼女は言わなかったのかもしれないが、僕は彼女の表現しきれなかった僕を僕として決定づける欠点を口にする。
「そして誰よりも泣き虫なんだ。僕はどんな時でも泣いていた。この癖は涙の神様が僕の心の根幹に住み着いているからなんだ。でも何とかして治さないといけないね。パンを見て涙ぐむなんて駄目だ」
彼女の細く長い指が、僕の指をなぞる様に撫でた。
「それがあなたのいい所なのよ。誰よりも感受性豊かで喜びや幸せを人よりも多く感受できる。その分悲しみも多く受け取ってしまうかもしれないけれど、あなたはきっと乗り越えられる。あなたは強い人だもの」
「僕が強いだなんて実感がまるでないな」
「あなたが強いからこそ、涙の神様はあなたの心にベッドルームを作ったのよ。安心して住むことのできる壊れることのない心にしか涙の神様は住まないの。きっとあなたは神様に認められたのよ」
また言葉に詰まる僕を予測したのか、彼女は言葉が終わるとすぐに袋からパンを取り出した。
「それよりパン食べよ、焼きたてなんだって。ほらまだ温かいよ」
人を困らせることを嫌う心の優しい人。僕なんかにはもったいない。まるで安らぎの園から抜け出した天使のよう。
 僕は彼女が半分に割ってくれたパンを食べる。焼けた生地の中には彼女の大好物のレーズンとナッツがたくさん入っている。彼女にとっては宝箱のようなパンだろう。
至福の味をこぼさないように彼女は口元を抑える。
「これ凄く美味しい。ね、食べてみて」
彼女に言われるままパンを食べると、僕の口の中に香ばしいナッツとレーズンの風味が広がった。そしてメープルの甘い口どけ。
「うん、本当に美味しいね。ソクラテスの哲学のようにバランスが取れている」
「ソクラテス。あなたの尊敬する人ね」
「哲学という人の心理の本質を追い求める学問の基盤を作り上げた人だからね。でも多面的な性格を持ち合わせていたから、彼の思想態度を理解することは難しいんだ。でも着眼点を変えれば多くの見方が出来る哲学的思想からも、未だに彼の足跡を追う人は絶えない」
「私は哲学のことはわからないけれどきっと凄いことなのよね」
「凄いことだよ。そしてこのパンもそれと同じだけの凄さを持っている」
彼女はまた僕の目を見る。彼女の視線から僕は彼女の思いを感じ取った。『このパンは凄いのね。つまりどういうこと?』彼女からの優しい問いかけに僕は口を開き答える。
「幸せの味だよ」
彼女は聞く。
「幸せの味?」
「うん、君と一緒に座って同じパンを食べれるなんて、こんな幸せなことはない」
気のせいかもしれないが僕には彼女の頬が少し赤らんだ気がした。どんなメイクよりも美しい、感情のファンデーションだ。海を照らす熟す前の若々しい夕日。
「私もよ」
短いけれど嬉しさが沸きあがってくる言葉。幸福の樹になる幸せという果実が僕たちの手にポトリと落ちた。きっと胸躍るトロピカルな味。種があれば鉢に植えてみよう。将来僕らの部屋から幸福の樹が世界中に幸せの果実を落とすようになるかもしれない。

 僕が幸せな感情と戯れ目をつぶっていると、「あっ」と彼女が声を出した。
目を開けると噴水の周りを走っていた男の子がつまずき転んでいた。僕と同じ髪の色の男の子の手から手離された風船は、秋の空を目指しゆっくりと上昇していく。風に吹かれながらも健気に上を目指していく風船の行方を追っている僕の耳に、男の子の泣き声が聞こえてきた。悲しみの雲をわしづかみにして振り回すかのような泣き声。
「ああ、可哀想」
母親が駆け寄り、落ち着かせようと頭を撫でられている男の子を見て彼女は心配そうな声を出す。怪我はないようだが、涙をこぼしながら空に昇る風船を見つめる男の子。そして今日という日の宝物を手離してしまった男の子に同調し悲し気な表情を見せる彼女。小さな出来事にも大きく衝撃を受け悲しみの海に浸ってしまうという僕たち共通の不具合。

 僕は一人ベンチから立ち上がった。彼女と男の子、この二人を悲しませたまま何もせずにはいられなかった。僕は問題解決能力の極めて低い人間だ。問題を前にまた宙を仰ぐだけかもしれない。それでもいい、僕に出来ることをすればいい。
「どうしたの?」
驚く彼女に僕は笑いかける。
「ごめんね、ちょっと行ってくる。今日の宝物は飛んでっちゃったけれど、僕がズルしてもう一つのプレゼントをあげる。彼が気に入ってくれるかはわからないけどね」
僕は彼女の太ももに乗っていたパンを包んで皺だらけになった紙を手に取り、噴水から吹きあがる水の陰で泣く男の子の所へ歩いて行く。僕は振り向きはしなかったが、後ろから彼女のフラットシューズの足音が聞こえてきたため彼女もベンチを立ったことが分かり、珍しく僕を追う形になった彼女に見えるように強く背中を張った。大丈夫だよ。きっと僕だって大丈夫。こんな僕にだってできることはある。
両親が教えてくれた言葉、それが今の僕の胸の中で響いていた。『希望を持っている限り人には不可能なんてない。ただ希望を手離したその手にいつの間にか握られているもの、それが不可能だ』
 突然やってきた僕を見て男の子の母親は驚いたようだけれど、後ろからついてきた彼女を見て少し安心したようで、困ったように僕たちに笑いかけた。そんな母親に僕は頭を下げ男の子の前にしゃがみ込む。
 見知らぬ男の顔に空を塞がれ驚いたようだけれど、そのショックが相まってか僕の陰に入り込んだ男の子の涙は止まったように見えた。
「風船、残念だったね。でもきっと空の上にいる誰かが大事にしてくれるよ」
男の子はまた下を向いてしまう。この男の子にとってあの風船は大事なものだったのだろう。当然だ、子供のころ手にするものには全てに好奇心と喜びが詰まっているのだから、それを手離してしまったショックは計り知れない。
「君の風船の変わりにはならないかもしれないけれど、僕からプレゼントをあげるよ。だからもう泣くのは止めよう。下ばかり向いていると喜び泥棒という悪い人がやってきて、君の楽しい気持ちが奪われてしまうよ。だから僕と一緒に上を見よう」
僕の顔を心配そうに見つめる男の子の目。
「お兄さんは喜び泥棒じゃないよね?」
男の子は小さな声でつぶやいた。だから僕は精一杯の笑顔を作る。
「心配しなくていいよ。お兄さんは君の味方だ。だからちょっと見ててね」
「うん」
しゃがんでいた僕は片膝をつき、膝の上でパンを包んでいた厚めの紙を半分に裂き、二枚になったその紙を手早く折っていく。折り紙は僕の子供のころからの得意技で、今では生活の一部にもなってしまっているほどだ。そんな僕の手際の良さに男の子が目を月のように丸くしたのも当然のことかもしれない。
「はい、出来た」
僕は男の子の手に二枚の紙を折り重ねたひし形のプレゼントを置く。オシャレなケースや袋には入っていないけど、僕に出来る全力のプレゼント。
 男の子は不思議そうに僕に聞く。
「これ、何?」
「これはね日本という国に住む、忍者という戦闘集団が使う武器で手裏剣というんだ。忍者はこの手裏剣をフリスピーのように投げて敵を倒す。手裏剣は日本に行かなきゃ買えない貴重品だよ。ほら、こうやって投げてみて」
僕は祖父から教えられた手裏剣を投げる動作をして見せてあげる。もちろんTシャツの襟を鼻の上まで上げて口を隠して。祖父の話では口を見せないのが忍者の正しい作法らしいから。
 男の子は僕の動作を真似て手裏剣を縦にして遠くまで投げた。
それとほぼ同時に男の子は「わぁ~~~」と声を出す。手裏剣は空を切るかのように飛び、コンクリートで舗装された地面に落ちた。たった3秒ほどの空中散歩。
だが男の子はそんな急造品にも満足してくれたようで、手裏剣を拾い満面の笑みで手を振ってくれている。
「お兄ちゃん、ありがとう」
僕も男の子に大きな声を出す。
「喜んでくれたなら良かった。でも噴水の方に投げては駄目だよ。忍者の武器は水には弱いから」
男の子に手裏剣の扱いについての注意喚起をしていた僕に、男の子の母親が声をかけてきた。
「あの、ありがとうございました。あの子なかなか泣き止まないから助かりました」
勝手に変な物を渡したことに不快感を抱かれているかもと、少なからず緊張の糸を張っていた僕は母親の感謝の言葉に胸をなでおろした。
「いえ、僕の方こそ勝手なことをしてしまい、申し訳ございませんでした」
母親は笑って首を振る。
「そんなこと言わないで。それよりあなたが作ってくれた、手裏剣でしたっけ。あれの作り方を私にも教えていただけないかしら。あの子よく物を無くしてしまうし、私も手裏剣をプレゼントして喜ばせてあげたいの」
ここにも心優しい人が一人。彼女やこの母親のような人ばかりの世界なら、僕だって翼を広げ大空を飛べるはずだ。吹く風は透明な青で、見渡す世界は木々の緑。その中を人々がバスケットにパンやフルーツを詰め込み歩いている。平和の色だ。
「いいですよ。二枚の紙を使うから簡単な方ではないけれど、きっとすぐに覚えられますよ」
そして僕は母親の隣に立つ彼女を見る。『もう一度折るけどいいよね?』
彼女はうなずく。『もちろんよ。是非折ってあげて』
僕と彼女の間だけの視線での会話。彼女はバッグから薄い四角のメモ帳を取り出し、二枚を切り取り僕に渡してくれた。でもさすがに噴水の横の地べたで紙を折っていたら不審者に見られるだろうから、僕たちはさっきまで座っていたベンチまで戻り、日本に数多くいるという忍者の武器である手裏剣の製作方法を伝授する。僕が祖父から教わった秘伝の製作法だ。
 そして僕はメモ用紙から折り紙へと存在価値を変えた紙を説明を交え、ゆっくりと折りこんでいく。口下手な僕の説明が男の子の母親にどれだけ伝わっているのかはわからないけれど、僕は僕なりに精一杯丁寧に教える。
なかなか折り方を理解出来ないようだったため、僕は折り終えた手裏剣を何度も開き、男の子の母親が一人でも手裏剣を折れるように教えてあげる。かなり時間が経ったように思えたけど、初めて一人で手裏剣を完成させた時の母親の顔は、僕が手裏剣を渡した時の男の子の顔と同じで、喜びに満ち溢れていた。
だけど男の子よりもその母親よりも一番喜びを感じていたのは僕だったのかもしれない。何の役にも立たないはずだった僕の折り紙で、こんなに喜んでくれる人たちがいたのだ。嬉しくないわけがない。重力に負けず空の果てまで飛んでいく夢の紙飛行機を折り上げた感覚。男の子の母親は僕の手を取る。
「ありがとう、私物覚えが悪いから大変だったでしょうけどもう覚えたわ。今晩帰ったらあの子に作ってあげるの」
「頑張ってください。一度覚えればきっと忘れないから」
「作れなかったら解体してみるわ」と言い、男の子の母親は僕が教え終わるまでに折った手裏剣を全て持って行った。もしまた会うことがあれば笑顔で手裏剣作りに成功したと報告してくれることだろう。
 まだ手裏剣を投げて遊んでいる男の子の所に戻る前に、母親は彼女の耳に顔を寄せた。何か話しているのだろうけど、僕には全然聞こえない。
「今日は本当にありがとう」
最後に男の子の母親は僕たちに手を振り去っていった。手をつないで歩いて行く男の子と母親の姿に、これからもどうか幸せであってほしいと僕は願った。今日という日は二度と戻ってこない、だから今を大切に、と。

 遠ざかっていく二人の姿を黙って見ていた僕に彼女が言う。
「お疲れさま。座ろ」
僕にとっての幸せな時間をくれる彼女。
「うん、そうだね。座ろう」
椅子に座った彼女は、すぐに水筒の蓋を開けそこに水筒の中身を注いだ。コポコポコポ。誰かが自分のために水筒から飲み物を注いでくれる音は、オーケストラの名演と同じだけ胸を打つ。僕の隣で彼女によって奏でられる幸せのハーモニーに、僕はまた泣きそうになった。
僕の胸でバスドラムが鳴っている。
「はい、どうぞ」
水筒の蓋を手渡された僕は彼女に聞く。
「あのお母さん、君に何て言ったの?」
「あなたのこと、『素敵な人ね』って」
蓋の中の液体に映る僕の顔を見ながら口を開く。
「信じられないな」
「私はあのお母さんの言う通りだと思うわ。あなたは素敵な人よ」
ためらうことなく僕のことを素敵だと言ってくれる彼女。恥ずかしくなった僕は話を逸らすため、また質問をする。
「これは何を入れてくれたの?」
「大丈夫。心配しないで飲んでみて」
僕は蓋の中を三分の二程満たしている液体を飲んだ。心の底から優しい彼女が言うのだから飲んでも間違いはない。
「あっ、これ」
僕は短く声を出し、また蓋に口を付ける。僕の口の中に流れ込んで来る良く冷えた液体には洋梨とジンジャーの味がして、その二つの味を支えるようにレモンの風味。僕の大好物だ。
「洋梨のジンジャーエール」
何も言わず彼女は笑ったままうなずいた。
「僕がこれ好きなこと知ってたの?」
「うん」
「でも言ったことないよ」
「前に二人でアロマショップに行ったでしょ。ほら、プルメリアとハイビスカスのアロマオイルを切らした時に。そのお店にいろんなジンジャーエールのボトルが置いてあって、あなたアロマオイルを探しもしないで、ずっと洋梨のジンジャーエールのボトル見てたから、『あっ、きっと洋梨好きなんだな』って」
「バレてたんだ」
彼女の顔にまたイタズラ猫が表れた。近づくと飛びつかれそうな危うさと愛しさを持つ表情。
「バレてたのよ」
また僕たちに向かい柔らかな風が吹いた。僕のミスを全て拭い去ってくれるかのような透明な肌触りの風。
「そっか、そういうところも治していかなくちゃ駄目だね。もっとしっかりしないと」
洋梨のジンジャーエールを飲む僕を彼女は見つめている。嬉しさと同時にくすぐったさを感じる視線。
「何?」
「さっきは格好良かったよ」
僕は彼女の顔から視線を少し下げ、白い首を見る。
「そうかな」
「あなたは変わりたいと思っているんだろうけれど、そのままでいいのよ。あなたはあなたのままが一番いい」
「でも君の言う通り折り紙ばかりしていても仕方ないから、怖がってばかりいないで社会に足を踏み出さなくちゃ」
青い空を見上げる僕の耳に、彼女のジャコビニア色を思わせる優しい声が届く。ピンク色の花束だ。
「社会に出るということは、働きお金を稼ぐだけではないんじゃない。あなたは素敵なプレゼントであの親子に笑顔を咲かせてあげた。人の助けになり、人を笑顔にさせてあげる。あなたが今したことだって立派な社会活動だわ。周りの声に惑わされないで。あなたにはあなたの生き方がある。あなたは幸せのアロマフューザーのような人だから、いつでもどこにいても人を笑顔に出来る。それでいいじゃない。社会が作ったまとも人間像の型枠になんか入らなくたっていい。あなたの思うように生きて、あなたが出来ることを頑張ればいいの」
彼女からのありがたい言葉に僕は感謝の気持ちと一つの疑念を返す。
「ありがとう。でも話をぶり返すようだけどお昼前の君は、折り紙ばかりやってる僕に怒ってたよね」
イタズラ猫は少し困った表情を見せる。彼女に厳しいことを言ってしまっただろうか。急に謝りたい気持ちが沸いてきたが、彼女は微笑んだまま僕の頬を軽くつねった。
「いいじゃない。さっきは少しビターな気持ちだったの。でももう大丈夫、今日あなたとお散歩して気づいたから」
「何に気づいたの?」
彼女は僕の顔を正面から見て笑顔で一瞬目を大きく広げた。幸せの湖のように綺麗な瞳。
いま彼女が何と言ったのか伝わり、心の中の僕は大きく跳ねた。

 僕たちの間でおなじみの視線のキャッチボール。いつからか、僕たちは言葉など使わなくても気持ちが通じ合うようになった。僕は彼女の言葉を受け取り、何を言いたいのか理解する。きっと彼女の意思通りの言葉を僕は受け取ったはずだ。だからこそ言える。
「こんな僕でいいんだね?」
「そんなあなただからいいのよ」
細い手が僕の背中を撫でた。
「ありがとう」
「ついていくわ。どこまでも」
チョコレート一枚分の距離を開け寄り添う僕たち。この距離が縮まる日もそう遠くないはずだ。穏やかな風に揺れる彼女の髪の毛が僕の肩に触れる。フェンネルと一吹きだけした香水の香り。僕は彼女の優しい香りを吸い込み、口を開いた。
「なんか今日なら新しいスタートを切れそうだ。帰りに電池を買って行こう」
彼女は首をかしげる。大好きな愛しの仕草。
「電池?」
「まずは部屋の時計を動かすんだ。僕たちが動き出すんだから、あいつも一緒に動かしてやらなくちゃ。あのカチカチと刻む秒針の音も、今じゃ無いと寂しいし」
「うん。そうだね、ずっと私たちの時間を刻んできた時計だもんね。電池を取り換えるついでにしっかり拭いてあげよう」
「ホコリの毛布をかぶってるからね」
フレグランスショップの店先からフランス・ニースのバラを使った香水の香りが風に乗り、僕たちを包んだ。硝子細工のように綺麗な二人だけの時間。僕にはカチカチという秒針の音が聞こえた気がした。
「ホントにいいスタートが切れそう」
「うん、本当に」
バラの香りがまた一吹き。彼女はベンチに手を付き首と足を延ばしている。
「こんな時間が、毎日が続けばいいなぁ」
「大丈夫。きっと続くよ。続けていこう」
僕は立ち上がり彼女の手を引く。
「行こう」
足をそろえ彼女は立ち上がった。。
肌を柔らかな風が撫でる中、チョコレートの距離で僕たちは互いの目を見る。
『僕に付いて来て』
『うん、どこまでも』

カチカチ 秒針の刻む音がまた鳴った。


                        芝本丈




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posted by シバモト at 20:21| Comment(0) | 読み物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月25日

カバンにフラペチーノを



今日は読み物を一つ。
今回は美術品は使わずに、過去の偉人を登場人物にしました。
天才物理学者のアインシュタインと哲学者のデカルトです。
どうぞお楽しみください。

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12月の明かりが照らすけやき坂のスタバの中、白い頭髪と白い髭を生やした男が、ふて腐れた様子でテーブルに戻って来た。彼の手には緑色の女性が描かれたカップが二つ。
「僕が君の分まで運んでくる理由がわからない」
デカルトは当然のことのように答える。
「私の方が先に何を飲むのか決定し、先に注文を終えた。カウンター前には多くの人が並び、少しでもスペースが空くのを待ち望んでいるようだった。どうやらこの街の人々は異文化の人間にだいぶ慣れてはいるようだが、それでも注文を終えた男が優雅にカウンター前に立ち尽くしていては腹も立つだろう。そのため私は君に整理券を託し、社会通念から外れない限り何をしていても許されるこの席に座ったんだ。それがあの場で私のとれる最善の策だった。まだ疑念はあるかね?」
「いいや、ないよ。もういい」
「それなら良かった。さぁ、君も座りなさい」
アインシュタインは椅子に座り、不快そうに顔をしかめる。
「まだ何か私の行動に不満があるのかな?」
「それは今の君の説明ですでに解決しているよ」
「では何故にそんな顔を?」
まるで我が家にいるかのように長い髪を手で梳かすデカルトに、アインシュタインは気弱な視線を向ける。
「この椅子、暖かいよ。きっとさっきまで誰かが座っていたんだ」
「それはそうだろう。これだけの人がいる店内で、この椅子にだけ誰も腰を落ち着けないと君は考えているのかね?空の上の誰かが、そんな小さなイタズラ心を働かせるとでも?」
アインシュタインは覚悟を決めたように椅子を引き寄せ、声を潜める。
「そんなことを言ってるんじゃない。誰かが去った後の椅子に座ることくらい気持ち悪いことは無いじゃないか。見知らぬ人と肌を合わせているような、そんな気さえしてくる」
彼の嫌悪感に対するいくつかの言葉が浮かんだが、それを飲み込みデカルトはただ笑っている。
「君は不快じゃないのか」
「気持ちのいいものではないかもしれないが、別に気にはならないな。人の数が多ければそれだけ人と接する機会も増える。それだけのことだ。そんなことで老いた顔を更に歪ませる君は、よほど自由に生きてきたのだろうな」
「座り心地の悪い椅子では数のパズルを解くことは出来ない」
「まぁ、それに関してはわからなくはない。私も数学に興じる種の人間であるから、君の気持ちも理解できる。自分に適した机と椅子があってこそ数学は楽しめ親しみを感じる」
言葉を終えデカルトはストローに口を近づける。この店を紹介してくれたアインシュタインのお気に入りだという、フラペチーノという飲み物。彼は何度もダークモカチップフラペチーノを頼むべきだとデカルトを促したが、注文を待つ列に並ぶ間に女性客がカウンターで不思議な色の飲み物を受け取るのを目にし、何かに引かれるようにデカルトも女性客と同じものを注文した。それがキャラメルフラペチーノ。飲食物の色彩的には中の下のような気もするが、落ち着ける場所のないこの世界で、心満たされる風味に出会うことに期待を寄せていた。良き飲食物と出会いは良き生活の出会いに等しい。だが唇がストローに触れるや否や、向かいに座る男の声が飛ぶ。
「あぁ、駄目駄目。デカルト君、それじゃ駄目だよ。君はスターバックスのフラペチーノの嗜み方をまるでわかっていやしない」
飲食の行為に入る直前で動きを止められることほど嫌なことは無い。デカルトの声は思わず大きくなる。
「君が何を言っているのか私にはまるで分らない。これは飲料なんだ。ストローまでしっかりと添えられた飲み物だ。それをストローから吸い出し口に運ぶことは間違いだというのかね?」
小さなテーブルにアインシュタインは身を乗り出し、周囲の陽気な客たちに聞こえないよう小声で話す。
「デカルト君、君は賢い人だ。だから人にあれこれと指図されるのは嫌かもしれない。それもストローで飲み物を吸い出すという、ごくごく簡単な動作についての口出しは非常に癇に障ることだろう。だけれど僕は人の間違った行動を黙って見過ごすことは出来ないんだ。ここの飲み物には最善の味わい方があるんだよ」
勝気なデカルトは湖面を揺らすように小さく笑う。
「面白いな。物理学以外でこれほど熱くなるなど君にしては珍しい。君の熱に免じてここは大人しく聞くことにしようか」
「それがいい。この世界に来てまだ短い君は、僕の言葉を信じるべきだ」
ふて腐れていたアインシュタインは急ににこやかになり、カバンの中を漁り始める。彼は整理整頓が苦手なのか、カバンの中という狭い世界ですらなかなか探し物は見つからないようだった。だがそれは仕方のない事。人は答えを探し出そうとすると必ず視野は狭くなる。ならば探し物も同様だろう。探すほど目当てのものは遠ざかっていくのだ。
 窓の外の青い光の中歩く人々を眺めていると、アインシュタインが子供のような声を上げた。
「あっ、あったよ。あったあった、やっと見つけた」
ようやく探し物を終えた彼の手にあるのは、日に焼けて古びたメモ帳だった。彼はそれをテーブルに置き、皺だらけの手でめくり始めた。
「忘れないようにここに書いておいたんだ」
「何をだね?」
「フラペチーノの嗜み方さ」
ため息をつくデカルトにアインシュタインは言う。
「僕のやり方をよく見ているといい」
「やり方ねぇ」
「そう、物理学に崩しようもない定理が存在するように、スターバックスのフラペチーノの飲み方にも定理が存在するんだ。ただスターバックスには愛好者が多いから、嗜み方の定理もいくつか存在し論戦は続けられているらしい」
「そんなことで論戦が?とても信じられないな」
「それだけフラペチーノは奥が深いのさ。フラペチーノの嗜み方で国交を断絶する国だってあるかもしれない。『君達は大きな間違いを犯している、我々の飲み方はこうだ!』とね」
会話を続けながらもアインシュタインはすぐにカップの上部に付けられていた半円形のフタを取り外し、ストローを袋から取り出した。
「なるほど、上に乗るクリームのようなものを酸素に触れさせるのだな。酸素によりクリームに大きな変化が起き、良質な味に変化すると」
「違う違う、答えを急ぎ過ぎてはいけない。腰を椅子に沈めゆっくりと問題に向かい合ってこそ、答えの神髄を導き出すことが出来るんだ」
アインシュタインは自慢気な表情でストローを使い、彼の注文したダークモカチップフラペチーノの上に乗るクリームを崩していく。一見下品にも見える行動だが、周囲の客たちに彼を嘲笑う様子はないことから、スターバックではこれはありふれた行為なのだとデカルトは納得し、彼の動きを真似て半分アイス上のクリームを崩し始める。だがそれも彼にとっては見過ごせない行為だったようだ。
「ちょっと待って」
アインシュタインの声にデカルトは手を止めた。デカルトのカップの中には晩年を迎えた老人の背中のように、崩れかけたクリームの山が一つ。溢れんばかりの哀愁が漂っている。
「今度は何だね」
「何だねなんて気取っている場合じゃないよ。君は今クリームを全て崩そうとしていた。だがそれはしてはいけない行為なんだ。君だって平地からどこまでも見渡せる人生など望んではいないだろう」
目の前に座る男が何を言っているのか理解できず、頭の上に今にも降りだしそうな灰色の雲が浮かんだ。フラペチーノ愛好者の老人は説明を続ける。
「哲学の世界で太く生きた君に人生を語ることは躊躇してしまうけど勘弁してほしい。平地を歩くような人生は安全だが、楽しみには巡り合えない。山や谷があってこその人生なんだ。山頂に辿り着き大地を眺める時の爽快な気持ち、谷から這い上がり陽の光を体中に浴びた時の澄んだ気持ち、それに誰も解けなかった物理史上の難題を説いた時の晴れ晴れしい気持ちと…」
言い淀んだアインシュタインの言葉にデカルトは続ける。
「頭を悩ませる相手がいなくなったことの物悲しさ」
「それだ」
アインシュタインは両手を広げ、自分の気持ちを素早く読み取った事への賞賛のポーズを見せる。
「山や谷があってこそ濃密で濃厚な人生が楽しめるんだ。喜びや悲しみを味わい生きていく。それが人生だろう」
アインシュタインのつたないが熱を持った言葉に、デカルトの心は緩みをみせていた。天才的な発想力と頭脳を持ったがゆえに不器用に生きた老人の明るい顔に、扉はきしむ。
「つまり君の言いたいことは、このスターバックスという洒落た店のフラペチーノという飲み物には、人生と同じだけの楽しみがあるという事かな」
「そうさ、そしてフラペチーノには人生の傍らに置いておくだけの価値がある。疲れた時や迷いがある時にお気に入りの椅子に座り、何度も読み返した文庫本を開きフラペチーノを飲む。それだけで人生は楽しくなるのさ」
哲学に対しそれほど深い見識を持たない彼には人生とフラペチーノの対比、いや、人生におけるフラペチーノの必要性を語ることは大変だったらしく、彼は大好物だという灰色のフラペチーノを吸う。
「ああ、本当に美味しいよ。ダークモカチップフラペチーノには美味しいという表現が一番合うな」
皺だらけの顔をほころばせアインシュタインは幸せそうに微笑んだ。人の表情を飾る博物館があるなら『幸せな時の表情』の標本には間違いなく今の彼の顔が使われるだろう。
可愛らしくさえ思える笑みを浮かべるアインシュタインの背中を、デカルトはそっと押す。
「では素晴らしいという表現はどうだろう?素晴らしいフラペチーノ」
フラペチーノ愛好者の老人は、物理を紐解く銀色の錆びた鍵を見つけたかのように手を叩く。
「その表現もいいね。だけれど『素晴らしい人生に素晴らしいフラペチーノ』よりは『素晴らしい人生に美味しいカプチーノ』の方が文学的に具合がいいと思うんだ。だから素晴らしいフラペチーノという表現はいつでも取り出せるように机の一番上の引き出しにしまい、美味しいフラペチーノという表現を使わせてもらってるんだ」
「君が文学的な視野を持つとは知らなかったな」
「数と真摯に向き合うには物理学的視点だけでは物足りない。必要ではないと思われる視点も取り入れてこそ数とわかりあえるんだ」
アインシュタインは笑みを浮かべたままデカルトのカップを見る、
「話し込んでいるうちにそろそろ頃合いだ。二回転と半分ストローを回しフラペチーノをかき混ぜるんだ。おっと、上に残ったクリームまで混ぜてはいけないよ。残りはゆっくりと崩しながら飲むのだから」
「それがスターバックスのフラペチーノの飲み方に対する、公式の見解なのかな?」
「公式な見解ではないよ。ただスターバックス愛好者たちの半数が押すフラペチーノの嗜みに、私が筆先で色付けした飲み方なんだ。大抵はクリームを全部崩し、ストローで強引に混ぜ込み飲んでしまうのだがね、私はまずクリームを半分崩し数分待つんだ。この数分がキモでね、注文したカップのサイズや店内の室温により適切な判断が必要となってくる。見極めが肝心なんだ。二分でいい時もあれば四分待たなければならない時もあるからね。そして時間がきたらストローでフラペチーノを二回りと半回転する」
デカルトは首を振る。
「本当に君はどうかしているな」
「よし、しっかり回したね。それじゃあ飲んでみて」
子供のように急かすアインシュタインに苦笑いを浮かべ、デカルトはストローに口を付ける。クリームと氷によって柔らかさを持った液体から甘いキャラメルの風味が口中に広がった。決して甘すぎることもなくキャラメルの潜在能力を余すことなく引き出した極めて優秀な飲み物に、デカルトは目を閉じる。
「どうだね?」
何故か自慢げな声を出すアインシュタインに、デカルトは瞼を開けうなずきかけた。
「君の言う通りだったよ。人類の英知が生み出した甘美な飲料が私の口内で踊り、鮮やかな羽を広げた。これは現代社会を生きていくには欠かせないのも物なのだろうな。人生を歩くのにフラペチーノは必要不可欠だ」
アインシュタインは今日一番大きな笑顔を見せる。入道雲が優雅に泳ぐ青空の下、草原の中を駆け回る少年のような透き通る清い笑顔。
「そうだろう。そうなんだよ、フラペチーノは常に僕らの傍らになければならないほどのものなんだ」
「本当に美味しいな。こんな飲み物があるなんて驚きだ」
「キャラメルフラペチーノでさえそれだけの味わいなんだ。私が頼んだダークモカチップフラペチーノなら、更に君を驚かせたことだろう。コーヒーとダークチョコレート、それにチョコレートチップとミルクが折り重なりあい、口の中で舞うかのような共演を見せてくれるのさ」
デカルトはもう一度キャラメルフラペチーノを飲み、顔を上げる。
「次にここに来たときは、君のオススメを頼んでみることにしよう。このキャラメルフラペチーノも捨てがたいがね」
「是非そうするべきだ。そして何度もスターバックスに通い、一番自分の人生に適したフラペチーノを選び抜き、そしてそのフラペチーノをカバンに入れ生きていくんだ」
「カバンに入れっぱなしにしていれば温くなってしまうし、そもそもこぼれてしまいカバンの中がベショベショになってしまうじゃないか」
斜めに顔を傾け、アインシュタインは片目を広げる。何とも皮肉な顔だが、彼の表情に嫌悪感を抱かせるものはなかった。大事な友人の得意げな顔。
「君は理屈に絡め取られているようだ。それではダメだよ。理屈の檻の中に居ては自由な発想など出来やしない。人生で常に携えるカバンに不可能などないよ。すべてを諦め光を失わない限り、いつでも冷えて美味しいフラペチーノを取り出せるんだ」
「それなら君はいつでもフラペチーノを楽しむことが出来るな」
隣の席に座る女性客たちが二人のフラペチーノ談議に笑う中、満足そうにダークモカチップフラペチーノを味わうアインシュタイン。
「デカルト君だって同じだよ。我々は生きている限りいつだってこの味を堪能できるんだ。一人ででもいいし、今日のように友人を連れてでもいい。穏やかな空気を吸い、フラペチーノが飲める。他に何が無くてもそれだけで十分に幸福じゃないか」
「物理が無くてもいいのかな?」
忘れ物に気づいたようにアインシュタインは目を開く。
「それは重大な問題だ。物理も加えておこう」
開かれたメモ帳にペンを走らせる彼の姿に、デカルトはつぶやく。
「君は生きているんだな、この世界を」
「そりゃあ生きているさ。心臓が動いていることが何よりの生の証明だろう。物理学の定理と同じだ。人の鼓動があるということは生きている証だ」
デカルトは下を向き、少なくなったキャラメルフラペチーノをストローでつつく。
「それは私も同じだよ。だけど君はこんなに素晴らしく美味しい飲み物を見つけたり、とにかく行動的だ。この世界に順応しようとせずとも、見事にこの世界に足をつけて生きている。それに比べ私はまだ馴染めずに凝り固まっているんだ。ここに私の居場所などない気がしてね。どうすれば君のように生きられるのか」
二本の揃えた指でこめかみをかき、アインシュタインは不思議な事を言う。
「まだ人類は宇宙の果てを観測すらできていない」
「どういう事かな?」
「ここまで文明が発展しても、世界は謎だらけなんだよ。私は謎を解き明かすことが大好きだからね、それが難問であればあるほど楽しみは沸く。デカルト君、私はこの世界でフラペチーノを机に置き難問に挑むことが楽しみで仕方ないんだよ」
デカルトの曇り空に薄日を差し込もうとするアインシュタイン。
「それならば私にできることも何かあるのだろうか」
「あるさ。この世界の人々は悩みを持つ人がとにかく多いから、デカルト君の力で救ってやることも出来るし、数学的にも結果を残してきた君の力はきっと私の謎解きにも役に立つ。だから手伝ってくれるというなら歓迎するよ。けれどそれでも足りないというなら、自分のすべきことを見つければいい。居場所がないなら自分で作ってやればいいんだ。本を読んでもいいし、映画を見てもいい。それに今はインターネットという世界中と繋がれる便利なものがあるから、そこから居場所を探してもいい。知ってる?インターネット?」
デカルトは恥ずかしげに笑う。
「知ってるさ。使う度にインターネットの利便性に驚かされ、昨日は部屋にwi-fiまで繋いでしまったよ」
「なんだ、やるじゃないか。私も最近インターネットでブログというのを始めたんだ。簡単に説明すればインターネット上に誰でも訪れることが出来る部屋を作れるんだ。コーヒーや食事で客人をもてなすことは出来ないが、記事を書きそれを読ませることで満足してもらうんだ」
デカルトはカップから手を離し、口元に手を当てる。
「それは凄いな。自分の部屋を作れるのか。それで君の部屋にも客人は訪れているのかね?」
「先週かな、アクセス数がやっと300を超えたんだ」
「300。凄いじゃないか、君の部屋に300人が訪れたという事だろう」
目の前に座る男は何故か頬を赤らめ、気まずそうに笑っている。
「そう思うだろう?」
「違うのかい?」
「インターネットとは本当に便利なものでねアクセス解析ということが出来るんだ。それで調べてみると、300を超えるアクセスは全て私のものだった。自分のブログを確かめようと何度も訪れていたからね」
デカルトは呆れ、天井を見上げる顔に手のひらを置く。
「酷い話だな。君は天才的な頭脳を持っているのに、そういうどこか抜けたところを持っている。それゆえ人から愛されるのかもしれないがね」
アインシュタインはダークモカチップフラペチーノのカップを一気に開けた。
「美味しかった。もう飲んでしまったよ」
「私もだ。君の言う通りフラペチーノという飲み物は最高だった」
「ダークモカチップフラペチーノなら君の喜びはもっと大きかったはずだがね」
「それはわかったから」
アインシュタインは口をつぐみ、デカルトはいつの間にか客数の減った店内を見渡す。
閑散とした店内に息苦しさはないが、かえって寂しさが目立つ。椅子に座る残された客たちの姿が、デカルトの目には帰り道を失った赤とんぼに見えた。彼らはこれから夜の都会の明かりに迷わず家に辿り着くことが出来るのだろうか。そして客たちの姿に自分を重ね合わせ、デカルトは不安の雲を背負う。
「これからどうする、もう遅いし帰ろうか?」
寂しさを感じたデカルトは帰ることを促したが、アインシュタインの返答は早かった。
「映画でも見に行こうよ」
「映画?」
「さっきも言っただろ、この世界での楽しみの一つさ。みんなで大きな画面の前に座り、映像に一喜一憂し胸を高鳴らせるんだ。これだって大事な人生の楽しみさ。映画を見ることは人生の蔵書を増やすきっかけにもなるしね」
帰ることを望んではいたが、友人の一言にデカルトは顔をほころばせる。
「映画か、それもいいかもしれないな」
「よし、行こう」
友人は勢いよく立ち上がり、デカルトもそれに続き席を立つ。

店の扉を開けると、街路樹が青い光でライトアップされ、それは天の川のように坂の上まで続いていた。立ち並ぶ高層ビルの下、青い光を放つ街路樹を見つめているとアインシュタインの震える声が耳に届く。
「なにやってるんだ、デカルト君。こんな所に居たら凍えてしまう。今からでも急げば上映時間に間に合うから、早く行こう」
振り返ると老いた友人は、震えながら白い息を手に吹きかけていた
「ああ、映画を見に行くんだったね。それで私達が見るのはどんな映画なのかな?」
寒さで顔を青ざめた友人はニヤリと笑う。
「スターウォーズ、人類が宇宙で戦いを繰り広げる映画さ。君は驚くぞ。映像の美しさはもちろんの事だが、我々の子孫が考えた突拍子もない発想にね」
「私にはついて行けそうにない映画のようだ」
「最高の人生の見つけ方やダヴィンチコードなどいくつか候補はあったんだけど、どれも古い映画のようで上映はされていないようだった。でも良かったよ、スターウォーズの最新版はまだ上映されているみたいだ」
デカルトも声を出す。
「私はスターウォーズという宇宙での人類の戦いの映画より、ダヴィンチコードという映画が見たかったなぁ」
口から出た白い吐息はけやき坂の冷気に紛れ、すぐに消えた。
「君は今日スターウォーズを見るべきなんだ。スターウォーズを見てこの世界を楽しむ活力をもらおうじゃないか。さぁ、行こう」
冷たい外気に身を震わせ、二人は歩き始めた。
「私はダヴィンチコードが見たかった」
「いや、デカルト君は理屈っぽいからダヴィンチコードは駄目」
「ヒドい言われようだ」
「すねてる暇はないよ。そんな暇があるなら楽しんで笑わなければ時間がもったいない。映画館へ急ごう。スターウォーズとキャラメルポップコーンが我々を待っている」
「キャラメルポップコーン?」
「そう、キャラメル好きの君はまたきっと驚くことになるだろう」
ゆったりと流れる車の列を横目に、デカルトは笑った。
「君といると眠る暇もなさそうだな」
「寝る間も惜しんで楽しみ笑う。それが人生の醍醐味さ」
楽しみ笑う彼らのカバンには一杯のフラペチーノ。
青い光に照らされ二人の背中は遠ざかっていく。この世界での居場所を見つけるために。
 足取り軽く映画館へ向かう二人の上、街路樹に粉雪が舞った。




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